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精読「ジェンダー・トラブル」#036 第1章-5 p56

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

セックスを二つに切りわけるカテゴリー化を生産する戦術は、「セックス」を、性的な経験や行為や欲望の「原因」と定めることによって、その生産装置の戦略的な目的を隠蔽してしまうのである。フーコーの系譜学的な研究があばいているのは、「原因」のようにみえるものが、じつは「結果」であるということだ。つまり、明確に区分された二つのセックスのカテゴリーを、セクシュアリティの言説のすべての基盤や原因とみなして、セックスにまつわる経験を規制していくことこそ、既存のセクシュアリティの体制がおこなっている産出作業なのである。

「ジェンダー・トラブル」p56

 この直前の文で、バトラーはフーコーの主張をこう結論づけています。

どのような性差のカテゴリー化にも先立つセックスのカテゴリーは、じつは特定の時代のセクシュアリティの様式をとおして構築されたものにすぎない

「ジェンダー・トラブル」p55

 フーコーによれば、異常性欲の発見と治癒を使命とする性科学を根拠として、健康促進・子孫繁栄のために「性的な経験や行為や欲望」を科学的・客観的・解剖学的に調べようとするセクシュアリティのあり方が、性器の相違をすべての根本原因であるとみなす考え方を生み出しました。
 法は、法が生み出した現実を、法の正しさを正当化する根拠としました(#003 参照)。それと同じように、近代的セクシュアリティの解剖学的視線が生み出した〈セックス=性器の形状〉という考え方を、近代的セクシュアリティの「言説のすべての基盤や原因とみなして」、「セックスにまつわる経験」を男女二元体の枠内に「規制していくことこそ、既存のセクシュアリティの体制がおこなっている産出作業」なのです。

(両性具有者)エルキュリーヌは、「アイデンティティ」ではなくて、アイデンティティの性的不可能性なのである。この人物の身体のなか、そしてうえには、解剖学的な男性要素と女性要素の両方が分布しているが、このことがスキャンダルの真の源なのではない。ジェンダー化された理解可能な自己を生みだす言語習慣が、エルキュリーヌのなかにその慣習の限界を見いだすのは、ひとえに、彼女/彼が、セックス/ジェンダー/欲望を支配している法則の集中と混乱を引き起こしているからである。

「ジェンダー・トラブル」p56

 エルキュリーヌについては  hiyamasovieko さんという方が素晴らしい記事を書いておられますので、こちらをご覧ください。

 両性具有者エルキュリーヌは、両性具有という第三のジェンダー・アイデンティティの存在を顕わにしているのではなく、ジェンダー・アイデンティティを定めるのが不可能なケースがあるということを暴露しています。
 アイデンティティが不可能になる理由は、「男性要素と女性要素の両方」がひとつの身体に混在しているからではなく、「言語習慣」のせいです。
 「言語習慣」とは、男女というジェンダーの二元体が実体としてあるように信じてしまうことです。ジェンダーの二元体が実体のように見えるためには、「オスとメスのカテゴリー、男と女のカテゴリーが、二元的な枠組みのなかで同じように生みだされる」(55頁)必要がありました(#035 参照)。この二元性という必要条件が言語面における「セックス/ジェンダー/欲望を支配している法則」です。
 このように、言語においては「セックス/ジェンダー/欲望」がワンセットとなった男女二元体は相互排他的な関係にあります。男でなければ女、女でなければ男です。
 エルキュリーヌは、解剖学的に見れば男でもあり女でもあるので〈両性具有である〉と同定可能です。よって「このことがスキャンダルの真の源なのではない」のです。
 いっぽう言語的に見れば、男女のセックスがまったく排他関係にないエルキュリーヌは、女でもなく男でもありません。つまり、エルキュリーヌのジェンダー・アイデンティティを定めるのは言語的に「不可能」です。この「性的不可能性」こそが「スキャンダル」、すなわち男女二元体の虚構が暴露されてしまうことの「真の源」なのです。

フーコーのエルキュリーヌの引用にはどうも胡散臭いところがあるけれども、彼の分析が暗示しているのは、セックスにおける異種混淆性(自然化された「異」性愛が逆説的に排除しているもの)は、セックスのカテゴリーをアイデンティティの本質とみなす実体の形而上学への批判になりえるという興味深い考えである。

「ジェンダー・トラブル」p56-57

 バトラーがフーコーの何を胡散臭いと感じているかは、上で紹介した hiyamasovieko さんの記事 をお読みください。
 「自然化された『異』性愛が逆説的に排除しているもの」とは、〈自分と異なる性の人を好きになる〉と異性愛が定義される以上、両性具有はそこから排除される、ということを指します。それが「逆説的」なのは、異性愛を「自然化」することで、現に自然にある両性具有が排除されるからです。
 この両性具有は、〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉という相互排他的な二元体を実体視し、それ以外はないとする「実体の形而上学」を混乱させることから、その「批判になりえる」とフーコーは暗示しています。

(#037 に続きます)


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