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精読「ジェンダー・トラブル」#038 第1章-5 p58-59

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

 二元的ジェンダーの虚構性が暴かれるためには、不調和な属性の戯れが必要だ、という議論の続きです。

もちろんこの不調和な形容詞が遡及的に作用して、それが修飾していると思われている実体的なアイデンティティを定義しなおし、その結果、実体的なジェンダー・カテゴリーの枠を広げて、まえには排除されていた可能性までも含みこむことになるかもしれない。だがそもそも実体というのは、その属性を規制することで偶発的に作りだされる首尾一貫性でしかないので、実体の存在論は、人為的な結果というだけでなく、本質的な余剰なのである。

「ジェンダー・トラブル」p58

 1950年代生まれの私の母は、赤ちゃんをおんぶする大人の男の姿を見て〈男が赤ちゃんをおんぶするなんてかっこ悪いからやめてほしいよね〉と小学生の私に言っていました。当時の母の中では(そして当時の社会では)〈男〉と〈おんぶ〉は調和しないものでした。専業主婦が主流の社会において、育児は母親の専権事項で、世の母親はそのことに誇りを持っていました。男のおんぶは聖域侵害に思えたようです。
 ひるがえって現代。〈おんぶ〉は顔の見える〈だっこ〉に変わり、〈男〉と〈だっこ〉は調和して、〈イクメン〉という男性的アイデンティティを強化する属性になりました。つまり「実体的なジェンダー・カテゴリーの枠を広げて、まえには排除されていた可能性までも含みこむ」ようになったのです。
 ここで〈イクメン〉という属性は、首尾一貫したジェンダーの序列のなかに強制的に秩序づけられる(#037 参照)という「規制」を受けています。働きながら(賃労働は男の必須条件です)〈イクメン〉になるには、福利厚生の充実した大企業でしか実現不可能なので、ジェンダーの序列としてはかなり上位に結び付けられるでしょう。そうやって〈仕事も育児もこなすエリート男性〉という「実体」が、赤ちゃんを抱っこする男性が現れる都度、「偶発的に作りだされ」ます。
 ですがこのような「実体」は、リアルであれフィクションであれノンフィクションであれ、イクメン男性が現れなければ生じ得ない存在です。だから実体が存在するなんて話は、あたかもそれが存在するかのように人がふるまうから存在するように見えているに過ぎません(#026 参照)。が、それだけではなく、実体の存在は「本質的な余剰なのである」とバトラーは言います。
 「本質的な余剰」とはなんでしょう。
 たとえば新人警察官にはじめて制服が貸与される時、新人は〈制服にふさわしい行動をとるように〉と諭されます。そして制服を着用した新人警察官は〈制服に恥じないように行動しよう〉と誓います。
 市民から見てこの新人警察官の本質はなによりもまず警察官であり、この人の身体に後から着せられた制服がその本質を表しています。服の方が本質なのです。
 ですがこの人は勤務を終えていったん制服を脱いだら、きっと警察官であることの責務から解放され、普通の人と同じようにくつろぐことでしょう。
 「本質的な余剰」とはこの、警察官の制服のようなものです。警察官は、原理的にはチンピラのように振る舞うことも可能ですが、現実的にはそれは不可能なのです。
 愛する女から〈男〉の制服を着せられた男は、原理的には自由に振る舞えますが、現実的には〈男〉のようにしか(=男の本質が〈男〉であるようにしか)振る舞えないのです。

この意味で、ジェンダーは名詞ではないが、自由に浮遊する一組の属性というのでもない。なぜなら、ジェンダーの実体的効果は、ジェンダーの首尾一貫性を求める規制的な実践によってパフォーマティヴに生みだされ、強要されるものであるからだ。

「ジェンダー・トラブル」p58

 本当のところジェンダーは実体ではないので、〈われ思う〉の〈われ〉のような名詞にはなりえません。が、フーコーがエルキュリーヌにおいて想像したような、チェシャ猫のニタニタ笑いのようなものにもなりえません(#037 参照)。
 ジェンダーが〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉という二元体のように見えるのは、そう見えるように振る舞うよう、人が「強要」されるからです。だからジェンダーは「自由に浮遊」はできないのです。

したがってこれまで受け継がれてきた実体の形而上学の言説のなかでは、ジェンダーは結局、パフォーマティヴなものである。つまり、そういう風に語られたアイデンティティを構築していくものである。この意味でジェンダーはつねに「おこなうこと」であるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によっておこなわれるものではない。

「ジェンダー・トラブル」p58

 「これまで受け継がれてきた実体の形而上学の言説」とは、〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉という相互排他的な二元体を所与のものとみなす言説すべてです。この中では、「ジェンダーは結局、パフォーマティヴ」なものです。
 ではその外、たとえばこの「ジェンダー・トラブル」という書物の中ではどうなんでしょう。パフォーマティブなジェンダーはないと言い切れるでしょうか。この点については、私は大いに疑問です。
 閑話休題。
 パフォーマティヴな行為は誰が行うのでしょうか。それは主体が自由意志によって行うのでしょうかーー。そうではなく、行為がまず先にあり、主体は事後的に構成されるのでした(#032 参照)。ジェンダーを実体化するパフォーマティヴな行為は総じて、実体化されたジェンダー自身に則って半ば自動的に、半ば強制的に行われるのでした。

ジェンダー・カテゴリーを実体の形而上学の外側において考察しなおそうとするなら、『道徳の系譜』におけるニーチェの主張ーー「おこなうこと、もたらすこと、なることの背後に『あること』はない。『行為者』は行為に付けられた虚構でしかないーー行為がすべてである」ーーが正しいことを、ここで考慮すべきだろう。

「ジェンダー・トラブル」p58

 「実体の形而上学の外側」とは、「実体の形而上学」が虚構であるということから考えることです。
 ニーチェの主張については #031 をご参照ください。
 言葉で何かを伝える時、文法の制約上必ず現れる主語は、実体ではなく幻想です。それと同じように、何か行為をする時、「実体の形而上学」の制約上、ジェンダー序列へ行為を強制的に秩序づけることが必ず行われますが(#037 参照)、そうやってできたジェンダーもまた幻想なのです。

この主張を、おそらくニーチェは予想もせず、認めもしなかったように応用して、命題として次のことが言えるかもしれない。ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティヴに構築されるものである。

「ジェンダー・トラブル」p58-59

 本節の〆です。
 男が〈男〉らしく振る舞うのは、彼が〈男:オス=男らしい=ストレート〉というジェンダー・アイデンティティを持っているからではありません。
 女が〈女〉らしく振る舞うのは、彼女が〈女:メス=女らしい=ストレート〉というジェンダー・アイデンティティを持っているからではありません。
 そんなものははじめからありません。
 「行為がすべてである」ーー実体であるかのように見えているジェンダー・アイデンティティは、〈男〉らしい振る舞い、〈女〉らしい振る舞いによって、パフォーマティヴ(行為遂行的)に構築されるのです。


 これで第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の「五 アイデンティティ、セックス、実体の形而上学」は終わりです。
 頁が進むたびに難解度が増していき、果たしてこんな調子で最終頁までたどりつけるのか?と現時点では不安しかありません(なぜ訳注がひとつもないのか?)。
 しかし、意味不明な文を前に無理やりつじつま合わせをしていると、ああ、バトラーはこんな風に考えていたのか、と分かる瞬間が来たりします。これはなかなかな快感です。脳シナプスがカチッとつながったような気がします。
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 次回からから第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の最終節「六 言語、権力、置換戦略」を1ページずつ精読していきます。

(#039 に続きます)


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