『「権力」の解体 主権者の矛盾』試し読み
本稿は「解体」論書 第4巻として発売した『「権力」の解体 主権者の矛盾』の試し読みである。
ここに第一章全文を試し読みとして公開する。
本稿には、現今の「権力」の解体とともに、真の自由の実現、また現代政治の統治手法も記してある。
興味のある読者は是非、文章の最後に貼り付けてあるURLから、Kindleにてご一読されたい。
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1,序言
筆者は本稿に於いて「権力」の解体を行う。というのも、昨今の「権力」の横暴が、目に余るが故である。
その例を挙げるとすれば、いや、筆者が例を挙げずとも、現状を見遣れば、読者諸賢も「権力」の振るう暴力に対し嫌気の差す心持ちとなるであろうが、それでも挙げるとすると、やはり諸外国に於いて行われた、新型コロナウイルスパンデミック(plandemic)の際の強制ロックダウンや新型コロナワクチンの「強制」接種が挙げられるだろう。双方共に、全く惨酷なものであった。前者では人々の外出の際に、外出している人民を発見次第、暴力を振るう警官が見られ、後者では、コロナワクチン接種の有無による職業選択の制限に於いて、半ば強制的な接種が行われていた。特に、これらはアジア圏というよりも、何よりも「自由」を標榜する欧米圏で行われていた、という事実に、是非とも我々は目を向けねばならない。筆者の見るに、最もこれらの制限を国民に課していたのは、カナダであった。あの欧米圏の中の欧米圏、イギリスの衛星国とものたまわれることのあるカナダが、である。筆者は一連の新型コロナウイルスのプランデミックによる様々な政治的動向を窺(うかが)うにつれ、この騒動の内に於いて、我々が次々と自由を失っている現実を思い知った。それも、市民の主導ではなく、「国家」の、即ち「権力」の主導によって、である。
ここで、我々は疑問を持たねばならない。何故、自由を重んじる西洋諸国が軒並み(殆ど日本を除いた全ての国家)足並みを揃えて強力な統制を、市民に対して敷くこととなったのか。そして、何故、主権者、つまりは国家の最高権力を司っている「国民」が、国家という「権力」を信託されているのみの政府という存在に、これ程まで支配されねばならなかったのか。「権力」による支配が強化されている昨今、我々はこれらの問について真摯に考えなばならないと、筆者は考える。特に、日本に於いては、これらのコロナウイルスプランデミックによる支配・統制の強化は然程見られなかったが、しかしそれは、日本が特段、市民の自由に対して敬意を払っているが故のことではない。むしろ、現状は、悪辣である。
日本政府は年を経る毎に大規模な増税を行い、国民は重税に喘いでいる。その多額の税金が何に使われるのかと言えば、国民のために使われるのではなく、諸外国へのバラマキに使われる。ウクライナへの支援金が良い例だろう。あれは、我々が額に汗して稼いだ給料であり、それを我々は「民意」の名の下に、勝手に他国へと流される。これを「権力」の横暴と言わず、何と言おうか。また、日本政府は事あるごとに緊急事態条項の名を出し、我々に改憲を迫ってくる。緊急事態条項は、政府が緊急事態を宣言すれば、内閣に「権力」の全てが委任されるという「全権委任法」である。即ち政府は合法的に我々、市民という主権者から主権を奪い去ろうとしている訳だが、これを国家による国民に対する反逆と言わず、「権力」の暴走と言わず、一体、何と言おうか。或いは、日本政府は減少する人口を食い止める策を何ら行うことなく、日本人の人口を減らし、代わりに「新しい日本人」として海外から移民を大量に入れている。これを政府による国民への侵略行為と捉えず、「権力」による恣意と言わず、または外患誘致と言わず、一体何と言おうか。……一応、この程度で止めておくが、この様に我々の「戴いている」日本政府は、己が国民から「信託」されている「権力」を用いて、やりたい放題である。最早、開いた口が塞がらない。
よって、ここで「権力」を解体しなければ、我々は非常に厳しい憂き目に合うこととなるであろうし、また、最悪の場合は、悔悟の念を持ちつつ、死ぬこととなるだろう。故に、我々は早急に「権力」を解体しなければならないのである。そのために、我々は「権力」というものを分析し、そしてその本質を解明せねばならない。というのも、そうしなければ、我々は再び同じ目に合うこととなろうが故である。「権力」を解明し、「権力」を根こそぎ、解体し尽くすのだ。それしか我々に、これから生き延びる術は無い。
そのために、筆者は一つの奇妙な事象に着目したいと考えている。それというのは「主権者の矛盾」というものである。例えば、読者諸賢は、この様な疑問を抱いたことは無いだろうか。我々は、国家の最高権力者である主権者であるにもかかわらず、何故、国家によって支配されているのだろうか。或いは、実例で言えば、上の新型コロナウイルスの感染拡大に際した強制ロックダウンによって、警官から暴行を受ける人々である。そもそも、強制ロックダウン自体、主権者である市民が要望したものでも無ければ、況して国家に対して命令したものではない。しかし、現実に何故かそれらは主権者の要請を受けていないにもかかわらず、行われ、結果として警官は、「皮肉にも」新型コロナウイルスに感染する距離に至るまで外出者に近付き、その強権を振るうこととなった。何故、主権者である市民の外出者に対し、所詮行政権の下っ端でしかない警官が、暴力を振るうことが出来るのだろうか。一般的に、これは社会契約説として説明される所ではある。つまり、全員が一定程度の自然権を放棄して国家を作り、つまりは暴力を国家に信託し、そして出来たのが国家であり、その下部組織である警察であるのだから、その国民から信託された「暴力」が、ある意味では「社会」に対する「反逆者」である「外出者」に対して振るわれるのは「当然」である、と。しかしながら、この強制ロックダウンには法的根拠も無かった。いや、それよりもおかしいのは、その前提である。
そもそも、我々は社会契約を行っていない。
契約が行われるためには、契約を結ぶ者同士の契約への十分な理解と同意が必要である。けれども、筆者を含む殆ど全ての国民に、国家から、社会から、政府から、社会契約という契約に関する十分な説明があっただろうか。或いは、契約に際して何らかの署名等を行ったであろうか。否、行ってはいないのだ。この社会契約説に関する致命的な問題を、とうの社会契約説自体は社会契約説自身を理論的な虚構であるとして捨て置こうとするが、筆者は、正にこれが、問題となっているのであると、考える。つまり、我々は、「権力」を国家に信託するように契約したとなっているが、殆どの国民はそれを行っていないこと、そして、理論的虚構である社会契約説が大手を振って世界を闊歩(かっぽ)していること、更に、そもそも「権力」を委託していないにもかかわらず政府が「権力」を振るっていること、全て、問題である。しかし、社会契約説はやはり、これらの問題を「理論的虚構」の一言で処理しようとするだろう。問題であるのは、その理論的虚構を「権力」の正当化に用いるその厚顔無恥であるが。故に、社会契約説に理論的虚構という逃走経路を用意させない最大の問題として挙げられるのは、主権者である市民に対して、国家或いは政府が「権力」を行使できるという矛盾、即ち「主権者の矛盾」であると、筆者は考える。これは、明らかに最高権力とされるものの上に更に権力を措定するという矛盾であるが故である。これを思惟し、そして解き明かすことにより、我々は「権力」を解体することが出来るだろう。
そして、「権力」の解体の暁に我々は真の自由を知ることとなる。筆者としては、読者諸賢に、この真の自由を、知っていただきたいのだ。それから、世界の変革に、邁進していただきたい。そうすれば、本稿の目的は達成されたことになるだろう。
さて、様々に筆者の憤懣(ふんまん)を様々述べてきた所で、本稿の説明に移ろう。本稿では、始めに「権力」の分析を行う。これによって我々は「権力」が「信念」の産物であることを確認するだろう。次に、我々は「権力」を信念であると見做し、その後、「権力」の構造を概観する。この際に重要となるのは、「サディズム」と「マゾヒズム」である。本稿を読まれている読者諸賢は、これを笑われるかも知れない。況して、SMとは。けれども、サディズムとマゾヒズムには、性的倒錯を超越した意義が、筆者の考えによれば、確かに存在する筈なのである。それは、極めて政治的なものだ。むしろ、現在、サディズムとマゾヒズムは性的な要素の内に幽閉され、その有する力と真の意義を、発揮できていない様に、筆者には思われる。故に、本稿に於いて、筆者はこれらの概念の意義を解き明かし、我々に役立てていこうと、考えている。最後に筆者は、サディズムとマゾヒズムによる実に奇妙な「権力」の構造に関する思弁を経て、「権力」の解体を行う。そして先述の通り、「権力」の解体の暁に、我々は真の自由を手にすることが出来るだろう。本稿は以上の様に進行する予定である。
では、早速次章から、「権力」について、見ていくとしよう。
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