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『空』試し読み

本稿は諸事論考 第4巻として新たに発売した『空』の試し読みである。
ここに第一章全文を公開する。
本稿は大乗仏教における最重要概念である空について記したものとなっている。空は何かと難解な概念ではあるが、出来るだけ分かりやすく、解説したつもりだ。
空や大乗仏教、または仏教について興味のある読者、またはそうでない読者も、是非、文章の最後に貼り付けてあるURLから、Kindleにてご一読されたい。

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 本稿は紛れもなく、大乗仏教に於ける最重要概念である「空」について幾らか書かれたものである。その点については疑いない。しかし、これを今、パソコンの画面上に打鍵している私は、本稿をどうしてくれようかと、正直途方に暮れてしまっている。というのも、私は本稿(の原型となった原稿)の執筆に、幾度も失敗し、その都度敗走を重ねてきているが故である。まず、読者諸賢に於いて了承されたいことがあるのだが、私は正式な近代仏教学の学位を修めた専門の仏教学者でもなければ、何処かの宗派に属している仏教徒でもない。いや、正確に言えば、日蓮宗の寺院に家族の墓があり、そこに彼岸の際には赴くだけの、大した信心も信仰もない、その様な人間である。ただ多少、様々な必要性と偶然から大乗仏教、特に龍樹を初めとした大乗仏教についてある程度の見識を得なければならず、その過程で空という概念を知り、そしてこれを知ってより今に至るまで、ずっと、これについての思索を重ねてきた。よって、本稿は仏教素人が述べる、余り学術的な価値も無く、強いて言えば、先哲の作に比すると塵芥が如き書物である、ということになる。これを怪訝に思われる読者も居られることであろう。その様な向きは、是非とも「空 大乗仏教」あるいは単に「空 仏教」という語群をアマゾンの検索窓に打ち込み、そして検索すると良い。実に分かりやすく、空を解説した書物に出会えることであろう。因みに私が勧める空思想の入門書としてはやはり『空の思想史』が外せない。一読されると良いだろう。……と、その様なことは良いのだ。問題は、この様に、空に関する先哲の分かりやすい、ありがたい、功徳がありそうな書物を前にして、私が何故、空について改めて書かなければならないのか、ということである。
 まあ、様々に考えてみたが、一つには、単に私がこれについて幾らか物したいだけである、というのが第一の理由として挙げられる。私はこれまでに空について、複数の著作で触れてきた。これについては、拙作を一冊でも読んでいただいている、ありがたい、非常にありがたい、誠に得難い読者諸賢は即座に頷かれることであろう。むしろ、私が空について触れずに済ませてきた著作の方が、数少ない。特に私の『「解体」論書』シリーズに於いては、空を大変ありがたく使わせていただいている。これを開発した仏教徒には頭を下げても五体投地しても、いや、全く感謝の念を表すことは出来ない。そんな私であるから、改めてここで空に関する著作を制作することにより、更に空というものを世間一般に広める機会を増やしたいのだ。元来、空は大乗仏教という宗教上の概念、或いは観念である。宗教の価値とは、正しく、信奉者の数によって決まるのである、と、私は考える。したがって、私も空を扱うことによって、より多くの読者諸賢にこの概念の有する価値を知っていただき、以て、大乗仏教徒に仕立て上げよう、という訳だ。ただし、私は大乗仏教徒ではないが……これは、捨て置くとしよう。兎も角、私が本稿で空について述べることにより、今までよりも多くの人に、これを知っていただけることだろう、という目論見があるのである。
 また、本稿を著すことによって、私がこれまでに思索してきた空というものが果たして一体どの様なものであったのか、ということを改めて明確にする、という意味合いも一応、本稿にはある。先にも述べた通り、空に関する平易な説明というものは、世間には成り立たない船の夥しい船頭の数ほど存するのである。それも近代仏教学の成果によって、一般化され、標準化された、学術的に価値の高い説明が、だ。けれども、私は、上の様に書いては何だが、余り、これらの説明で空を理解することが出来なかった。何しろ、空というものを一言で表せば「あることもなく、また、ないこともない」という言述になるのである。そもそも文章からして破綻しているだろう。空に関する著作の、その全てが、これを大変「上手」に説明していた(と、私は思っている)が、どれを取ってみても、いまいち……掴み所がない、いや、理解しがたい……兎も角、私の様な凡夫には深遠に過ぎ、端的に言えば、分かりづらかったのだ。であるから、私は一から、それらの解説を横目に、空を思索しなければならなかった。本稿はその思索に於いて得られた一つの成果となるだろう。
 或いは、この不毛な探求の中で、空に関するより分かりやすい説明の必要を、私は痛感した。日本人はよく自分の利益を度外視してでも他人を陥れようとする、というのが俗説として存するようだが、私はその例外の様だ(といっても、殆どの日本人は「例外」だと思われるが)。私はこれから空を学ぼうと志している読者に、あの迷宮を彷徨う様な五里霧中の探索を強いるのは酷であると、思っている。したがって、その霧の中に於ける光……とはいかないまでも、道標の一つになれば良いと思い、本稿を著す。けれども、本稿は上述の通りに、仏教素人の綴る空に関する幾らかの言述である。恐らく、私の蒙昧と浅学から、誤りも大変多いことであろう。けれども、その誤りは読者自身が訂正すれば良いと、私は思う。あくまでも本稿は道標の一つであり、旅の到達点ではない。それを読者は了承されたい。
 と、以上が本稿の成立動機、または目的となる。平たく言えば、一、空をより多くの人に伝えるために、二、私の空に関する探求の成果を発表する場として、三、より分かりやすい平易な空に関する説明を、という三つの動機・目的から本稿はこれから私の手によって書かれる、という訳だ。こう書くと、何やら堅苦しい学術系の論説が後の章に続くのかも知れない……と、尻込みされる読者諸賢も居られるかも知れないが、御安心を。胸襟を思う存分、開いていただいて構わない。先にも述べた通り、私は、何度も本稿の完成に失敗し、その失敗の内には、空を学術的に、謂わば論文の様に述べる、という試みもあった。無論、大失敗に、これは終わった。したがって、続く章からは、私が空を主題として書く、随筆や、軽い試論の様なものが続く予定だ。場合によっては、胸襟どころか、上着を脱いでいただき、その勢いでネクタイも限界まで緩めて、いや、取っていただいて構わない。その様な、軽い心持ちで、読まれると良いだろう。
 何しろ、普段私は設計図を書いてから原稿に手を入れ始めるのだが、本稿に至っては、それすらも書いておらず、最早、私にも向かう先が分からない状況なのである。この様な状況で必要とされるのは、堅苦しい正装ではなく、新たに漕ぎ出すべき船と櫂だろう。とはいえ、そこまで過酷な旅、ということは無い筈……その予定である。兎も角、新しい旅程はここから始まるのだ。余り足踏みしていても、始まるものもありはしない。早速だが、次章から、空に関する記述を、始めてみることにしよう。

興味のある方は、下記のURLから本編を読まれたい。


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