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【何でもない日常をエモく綴りたい】解像度

こんにちは。毎日暑いですね。
冷蔵庫に貯めてあるシャトレーゼのアイスが秒でなくなります。

解像度とエモさについて語っていますが、
今日は物語というより随筆チックなあれです。

【解像度】
 技術力が上がり、年々数値の上昇を見せるカメラの解像度。
パシャリと新聞の写真を撮れば拡大しても文字が問題なく読めたり、森を撮って拡大すれば葉一枚一枚の葉脈まで確認できたりするらしい。
 解像度という概念は、表現にも応用できるのだと最近気づかされた。自分が趣味で書いた小説を、ネットで繋がっている友人に読んでもらったときだ。「文章の解像度がすごい!」、そう誉めてもらった。自分にとってとても嬉しい誉め言葉だったのと同時に、解像度って画像だけじゃなく、こういう表現にも使えるのだと思った。
 確かに、目に映る一般のものにはすべて解像度という概念があってもいい。例えば、自分の視力が下がったときに「また解像度が下がっちゃったよ」なんて言ってもきっと聞き手に理解してもらえるだろう。

 解像度。見ている景色全般にそう言えるならば、芸術的な分野で言えば絵もそうだし、演技をしている人達にも、音楽にも言えることなのかもしれない。聞き手にどれだけ具体的に伝わるか、という比喩で「解像度」という言葉は使えそうだ。技術が上がって表現方法が増えて、伝えたい誰かに具体的に伝える技量や、方法が増えていくことを「解像度が上がった」とこれから表現しようかな、なんて思った。

 ただ、エモさを考えた時、目に映る光景は、ただ解像度が増えればいい、というものでもなかったりするのではないか。
 はっきりしっかり映りの良い画像になれば、その分比例するようにエモくなっていくものだろうか。もちろん解像度が上がれば、実際の景色を見ている壮観さはあるかもしれない。
 ただ、霧の多いロンドンがエモかったり、8mmフィルムのざらざらとした質感がエモく感じたりするように、「何かが見えない」「ぼんやりとしている」ことでそれが際立つということがあって、解像度を減らす、ぼやかすことでエモさが表現できたりするのではないだろうか。
 エモさとは奥深いものだ。いとおかし。


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