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短編小説Vol.10「沽券が悲鳴を奏でる」

20代後半の頃、友人と山陰の温泉宿に出かけた。
その宿は海の間近にあり、私は日本海を一目眺めたいと、出かけることにした。
そこで、辺りを知らない私を気遣い、若い女将が付き添ってくれた。
足元が定まらない浜辺になると、私の手まで取って案内してくれ、全く自惚れではなく、彼女が私に好意を抱いていることが分かった。
そして、彼女は間近で見直すと息を呑むほどの絶世の美人だった。
しかしこれ以上何をすることもできず、宿に戻った。

その夜、用事がありロビーに向かうと、年増の女将が対応してくれた。
会話の流れで、
「この若女将の綺麗さには驚いた。この街には美人が多いんですかね。」
と感嘆すると、
「そうでしょう。街一番の美人ですから。実はこの宿の跡取りというのがこれまた街一番の男前で遊び人でしたが、あれをもらってから遊びが治まって、仕事を真面目にやり出したんですよ。」
と教えてくれたものだった。

それから数年後。
渋谷のバーで相席した若い女性に出身地を聞くと、あの山陰の温泉町だった。
そこで私はあの絶世の美女を知っているかと質すと、
「知っていますよ。けどあの人今、刑務所にいるんです。」
と返ってきた。
訳を聞くと、旦那を絞殺したとのことだった。

遊び人の旦那は、美女を嫁に取ったが、その贅沢にも飽き、遊び始めたのだろう。
そして、あの女将は美人の沽券から亭主を殺した。
この根拠のない筋書きに、片思いの沽券から私は妙にすんなりと納得した。

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