見出し画像

天狗礫(2) | ヒマラヤをうろうろと9

キャンプ中は、氷河の融け水を飲料水として使っています。
そのまま飲むのは勿論良くないので、前日寝る前に沸騰させたアツアツのお湯を水筒に入れておきます。すると翌朝丁度良い温度の水になるわけです。カトマンズで安物の水筒を購入しておくと(200-500円ぐらい)、保温効果が大変しょぼいため水筒自体が熱々になります。これを湯たんぽとして寝袋に忍ばせることで足先が冷えるのを防止しています。お湯は毎晩コックのゴパールが作ってくれるのですが、彼は突然小屋を出て行ってしまったため、火の番をしながら彼を待ちます。

火の勢いが弱まってきたので、ヤクの糞塊を手でつかんで入れるかどうか悩んでいると、扉が勢いよく開きゴパールと数人のポーターが何かを担いで戻ってきました。なんだなんだと見にいってみると、我々のシェルパの一人が顔中血まみれになってぐったりしています。
ゴパールが早口で状況を説明してくれますが、何度聞いても「石が降ってきた」としか理解できません。村は谷底の平坦な場所にあるため斜面からの落石ではなさそうです。一体どうしたってんだ…

ひとまず、サーダー(シェルパのリーダー)に対処してもらおうと彼を呼んでもらうと、一月ぶりのアルコール摂取でへべれけになった彼がやってきました。いつもは厳しい顔をしたサーダーも、久しぶりの村で気持ちが緩んだのでしょうか。
しかし状況を知るや彼の眼はいつもの鋭さを取り戻し、私に「針と糸を持ってきてくれないか?」と言いました。

なんだか衛生面とかに問題はありそうですが、エベレスト登頂も経験した百戦錬磨の彼が言うのだから、ちゃんとした手順を踏むんでしょう。私は自室に戻り、ザックから裁縫具と救急セットを取り出すと、彼らの場所に戻りました。

部屋に入ると、怪我をしたシェルパは床であおむけにされ、周りをゴパールやポーターたちが囲っています。サーダーは彼のけがの程度を確認しており、一緒に覗き込むとどうやら下唇を深く切ってしまったようでした。

「サーダー、針と糸を持ってきたよ。あと救急セットも。」
私は怪我をしたシェルパの頭上付近に立ちながら、彼にそう伝えました。
するとサーダーはすっと立ち上がり、厳しい顔でこう言いました。
「すのこさん、それじゃあ始めてくれ」

「へ?・・・」
「縫うんだよ、血が止まらないだろ?」
「いや・・・無理でしょ・・・」

***

ヘリコプターで運ばれていくシェルパを見送った後、我々はゆっくりと下山を始めました。ポーターたちが稼いだお金で何をするか話しながら (多分)、急ぎ足で荷物を運んでいきます。天気はすこぶる良く、午後には下流のロッジに到着できそうです。

サーダーに傷口を縫うようにお願いされましたが、当然私にはそんなことはできませんでした。口元の傷口はテープで開かぬよう固定し、衛星電話でドクターヘリを依頼しました。
シェルパの口元をテープで固定しているとき、ポーターがしきりに髭にテープがつかないようにと念を押してきました。どうやらテープを取るときに髭が抜けてしまうためだったようですが、そんなことは気にしている場合ではありません。

結局どのような状況でシェルパが怪我してしまったのか、その詳細はいまいち理解できていません。石が降ってきたのか、酒に酔った彼が転んで顔を石に打ち付けたのかは不明ですが、幸いなことに彼は1日入院をしたのみですぐに回復することができたようでした。
トレッキング中は最後まで飲酒禁止ですね。

前回のお話はこちらです。もしよければご一読ください。