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#1時の雫_庭の花(1/3)

庭の花


 緑が目にあざやかな季節となりました。季節のめぐりの中で、植物もそれぞれの時宜を得て、花を咲かせています。
 今、私は定期的に長野を訪れる生活を送っています。エリアで言えば、軽井沢の南部にあたり、車で移動すると3時間ほどの距離です。都心からそんなに遠く離れているわけではありませんが、途中、群馬の県境あたりから目に飛び込んでくる景色は、都会の喧騒を一掃してくれるような緑が広がっていて、私はいつも息をのむ思いがします。
 初めて訪れたのは4月の半ばを過ぎた頃でした。その頃はまだ新緑が芽生えたばかりで、山の緑は大和絵のぼかしのように、淡い緑に覆われていました。それが次に訪れた5月の初旬には、若葉が力をたずさえて、木々の緑が鮮やかに浮かび上がっていました。そこに生えているのは、クロマツ、ブナ、ナラ、スギでしょうか、、、それぞれの若葉の色が山の表情となり、山を彩っていました。
 植物の彩りは山だけではありません。訪問先のお家の庭には、春の花が色とりどりに咲き誇っていました。その植物の生き生きとした色彩は、目を洗うようでした。生き生きというのは、比喩の領域に収まらず、字義通り、生命力をたずさえているのです。日頃から花をリビングにいけている私ですが、都会のマンション暮らしの生活ですと、花はスーパーの切り花コーナーで贖うしかありません。スーパーの切り花はたしかに美しいといえば、美しいのですが、いかんせん生命力に欠けています。私は思わず、咲いている花の何本かを自宅に持ち帰りたいと庭の主に請うてしまいました。庭の主──義理のお母さん──は喜んで分けてくださいました。そこで私はあやめ、紫蘭、小手毬、二輪草、芍薬を剪定ばさみで切らせてもらい、復路の車中でも大事に胸に抱えて持って帰りました。

<切れ>という概念


 その切り花はリビングの花瓶にいけました。幾度かのいけ直しを経て、瑞々しさをそのまま携えて咲く姿もまたよいものでした。庭で美しく咲いていた花々は、花器においてもまた、それぞれの個性を活かして咲き誇っています。むしろ、庭で見ていたときの花の色よりも、濃さを増しているような気がしました。もちろん、持ち帰った花々は庭においても、美しい色を放っていたのですが、そうして花器にいけることによって、それぞれの色が際立って美しく見えるのですから、不思議です。そのとき、私は以前に読んだことのある<切れ>という概念を思い出しました。<つづく>


エッセイは金曜日に配信する予定です。


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