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何もなくなった部屋のドアを閉める時

引越しをした。

引越し自体は人生初めてではないが、この引越しは少し特別だった。

両親の家を出て、初めて一人で暮らした部屋とお別れした。

引越しの数日前から聞いていた歌があった。タイトルもそのまま「引越し」という歌だ。

引越そう 慣れ親しんだこの場所とのお別れ
引越そうか 今より高いところに
空っぽな部屋から最後の荷物を運び出す間
少しの間、振り返るよ
泣いて笑った日々よ これでさよなら

歌自体はAメロから歌詞を通して聞くと、夢を求めて上京し、初めて住んだ家との別れの心情が綴られている。

はっきり言って、私にはそこまで大層な夢はなく、あったのは実家を出て自分の小さな城を持ちたいということだけ。

初めて住んだ東京の片隅のアパートの部屋は、自分で住みたい街を選んだのではなく、会社から独身寮という名目で、ここに住みなさい、とあてがわれたものだった。

本当は、仕事帰りの疲れを癒してくれるオシャレなカフェや、朝の紅茶一杯のお供をしてくれるバターたっぷりの焼き立てクロワッサンが買える街に住みたかったが、家賃補助で相場の半額以下で住まわせてもらうため贅沢は言えず、むしろその条件でオートロック付きの物件に住まわせてもらうのでありがたかった。

窓から見える景色は心躍るものではなかったけど、白い清潔感溢れ1Kの部屋はこだわって選び抜いた淡い色のカーテンをかけ、後に旅先で買い集めた絵画などの小さな芸術品たちに囲まれた空間はそれなりに居心地は良かった。

歌を聴きながら考えた。私がこの部屋から荷物を全て運び出し、何もなくなった部屋を振り返る時、やはり寂しくなったり切なくなったりするのだろうか。

それなりの年数住んでいたこの部屋とのお別れはどうなるのかと。

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私は、ダンボールと家具が次々と運び出される部屋を見るに、いよいよお別れだな、という心情がこみ上げてくるのかなと思っていた。

私の集めた小さな絵画たちが引越し業者の方に包まれるのを見るまでは。

私は海外旅行が好きで、どこかに行くたびに絵を買って帰ってきた。大層な物ではない。スーツケースの隅に入る小さい物。景色のいい観光地で、観光客向けに道端で売っている風景の絵がほとんどだ。

リスボン、プラハ、ヒヴァ。

あとは閉店セールをしていた額縁屋さんの店頭で叩き売りされていた絵や、美術展で買った有名絵画のポストカードやプリントである。

その子たちが丁寧に包まれて段ボールに入れられ、また新しい場所で再会する。遥々ヨーロッパやアジア各所から日本にやってきて、また新しいところに旅立っていく。

羊飼いが羊を連れて次の場所に移動していくように、私の集めた小さなアートたちもまた私と一緒に移動していく。新しい家の壁をこの子たちが彩る時、私のこれまで来た道も思い出も何も消えることはないのだときっと実感するのだろう。

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そうやって全ての物がなくなって、使い倒したキッチンや風呂場を掃除してから、最後のドアを閉める時。

初めての経験だと思ってたのに何回も経験したことがある感覚が過ぎる。

旅行先のホテルのチェックアウト。全てのものをスーツケースにしまって、慣れ親しんだ部屋とお別れする時。

ザグレブ、クアラルンプール、ホノルル。

居心地のよかった宿の部屋とお別れする時。その街にもう一度来ることはあるかもしれないけれど、この部屋に来ることはもうないだろうな、扉を閉める瞬間。

新卒で就職した会社の独身寮。所詮は仮住まいだったのだ。旅行先のホテルより少し長かっただけで。

午前中しか直射日光が入らない窓のずっと向こうの空は朱色を帯びて、1日の終わりと共に私の初めての仮住まいも終わろうとしている。

こういう時は大抵「ありがとう」と言って出るのだが、なんだか急に数年分の重みが感じられる。

でもここで寂しくなったりしんみりするのは正直めんどくさい。他にやることはたくさんあるし、夜はゆっくり休みたい。そうやって無駄に感情を消費するのはエネルギーがもったいなく思えた。

この部屋は最初から別れが定められていたのだから。

私はドアを閉める前に、もう一度部屋を見渡してから、こう言った。

「あんにょん!」

韓国語の挨拶。人に会った時も別れる時にも使える便利な挨拶。別れの時にしか使う言葉じゃないから寂しくない。

こういう時、知っている言葉が少しでも多いと救われる。

笑いながら、手を振ってもう一度口にした。

「あんにょーん!!」

別れの挨拶もしっかり果たしたから、もう未練はない。

私のいるべき場所は、私の羊たちがいるところ。
次に進んで、羊たちと再会しよう。

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▼記事中の歌詞はこちらの動画の和訳から拝借しました。




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