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生と死とゴッホ

アンテナを張って生きている人が好きだ。例えば日々の小さな気づき、頭の片隅に浮かんだ気持ち。そういうものをちゃんと掬い上げて、大切にしまっておく。私もそんな風に生きてゆきたい。

幸せは謙虚にさりげなく毎日に潜んでいる。忙しくしていると、ついそれを忘れてしまう。それはお風呂に入ることと似ている。熱いお湯で体を流して、シャンプー、リンスをする。体を洗う。そしてまた流す。手順が完全に体に染み付いていているから、意識を使う必要がまるでない。あまりに頭と体が繋がっていなくて、シャンプーをしたかどうか忘れてしまうから、結局二回も頭を洗ったりする。そういう毎日を繰り返している。

シカゴは煙と排気ガスと死の匂いがする。巨大な高層ビルがひしめき合うように立ち並んでいて、その隙間から少しばかりの空が顔を覗かせている。日本の実家から見上げた、あんなに広々と続いていた空が、ここではやけに小さくて遠い。タバコの匂いを久々に嗅いで、懐かしい気持ちになった。普段家族がうちでタバコを吸っている時は文句ばかり言うのに、遠く離れた場所で嗅ぐタバコの匂いはどこか心地が良い。どこにいても、何をしていても日本が恋しい。何度日本とアメリカを行き来しても、それだけは変わらない。

美術館に行った。アメリカの美術館に高尚だとかいう言葉は似合わない。それはいつも人々のすぐ身近にある。小さな子供も、若い女性も、老人も、遠い昔にキャンバスに閉じ込められた誰かやどこかに想いを馳せる。作品について熱心に語り合う人、他愛もない感想を共有する人、ベンチに座ってぼーっとする人、スケッチをする人。何にも縛られることなく、時間が小川のようにゆるやかに流れていく。声を顰めなければならないような緊張も、死んだ静寂もそこにはない。美術館は生き生きとしている。

冒頭の"アンテナの話"に戻るが、思い返せば私はそういう小説が、音楽が、芸術が好きだ。日々の何気ないに潜む幸せや美しさを捕らえたものたち。例えば印象派。それまで好まれた写実的な描写、ディテール、形ある物を正確に表現することとは違う。時の流れとともに移り変わる景色の表情、目に映り込む光。流れるように走る筆使いが、その儚さを追いかけているように見える。ずっとずっと昔に失われた、二度と現れることのない誰かの毎日は、確かにそこで息をしていた。

大学の課題で調べ物をしていたら、とある日本人ドイツ文学者のインタビュー記事を見つけた。面白い記事だった。そのドイツ文学者が数年前に亡くなっていたことを、後から知った。記事の中のその人の言葉があまりに自然にそこにあったから、この世界のどこにも彼がいないという事実が信じられなくて、少し狼狽えてしまった。でも確かに、彼はまだ、彼の遺した言葉の中に生きているのだ。私が死んだずっとずっと後も、本や、キャンバスや、誰かの心の中に私の一部が生きていたとしたら、それはかなり素敵なことだと思った。

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