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『嫌われる勇気』を読んで

 読み終わって、すぐにnoteに何かしら残したいと思い、書き始めた。

 私は就活を控えている大学3年で、ここ最近自己分析に明け暮れていた。私の過去の経験をもとに、承認欲求に支配された人生を送っていたことがわかった。この時点では承認欲求が原動力になるなら、承認欲求も悪いものではなく、常に勝負の世界に身に置ける誇り高き戦士であるように思えた。しかし忙しい人向けに自己啓発本の内容を簡単に紹介する動画が「アドラー哲学は承認欲求を真っ向から否定する」と紹介していたことを思い出し、自己PRで承認欲求が原動力と語るには反対意見を知らなければと思い、今日の朝本屋で購入し、1日で読んだ、読む手が止まらなかった。

 内容は理解し難かった。原因論と目的論の転換、課題の分離、承認欲求の幅、などなど。既に読んだことある人も同じ感情を抱いたのではないだろうか。しかし腑に落ちないが、わからなくもない。若者言葉で表せば「なしよりのあり」、「理解できないけど、少しはできている」のような、ふわふわした感情。読者が突っかかるであろう論理を、若者が代弁して質問してくれる対話方式を採用しているからである。具体例を用いて説明することで、主張がより強固なものになることもハッピーセットで実感できた。

 本書では、アドラー哲学では、承認欲求を否定していた。今まで他人の評価が原動力となっていた私自身が否定された。2週間もかけて結論に至った自己分析も無駄になってしまったとも思えた。しかしこれまたアドラー哲学に言わせれば、過去の経験と現在を線で結ぶような考えをしてはいけないらしい。もうはちゃめちゃだ。就活で最も大切とされている自己分析の意義を否定したような考えだ。また未来を想定する目標を立てることも好ましくないらしい。就活の目標を設定することを否定するなら、どうモチベーションを保てばいいかわからない。就活する意味でさえ見出せなくなる。

 私の人生は何を得ることで、することで幸せと感じるのかと、振り返るとそこには承認欲求が仁王立ちしていた。しかし承認欲求が要因の幸せは健全でないらしい。

 ええい、認めよう、青年風に書いてみたが、真っ向から否定された気になったが、この本に出会えて良かったと思っている。自己分析の結果として、会うべくして会った本である。

 再三書くが、理解に追いつかない。何度も反芻して、自分なりに吸収したい。血となり肉にしたい。私も対話を通して、アドラー哲学の知見を深めていきたいが、これまたアドラー曰く「何を与えられているかが重要ではなく、与えられたものをどう使うかが重要であるらしい」、常識が覆されすぎてもうギブアップだ。

 ありがとうアドラー。