私の「シェーンの誤謬」 その2 粗忽長屋

こんにちは、すんどめパターソンです。
Facebookの「シェーンの誤謬」ページに掲載中の記事をこちらに転記します。
なにぶんFacebookタイムライン中の記事ですので、用語・体裁等、その仕様になっておりますことをご了承下さい。

【私の「シェーンの誤謬」 その2 粗忽長屋】
こんにちは、すんどめパターソンです。
例によって私自身の「シェーンの誤謬」体験について僭越ながらご紹介させて頂きますよ。
シェーンの誤謬って何? という方は、本タイムラインの一番下、2018年6月27日の投稿をまずご一読下さい。
いや、それ以前に映画『シェーン』をまだ観たことがないという方は、ぜひ一度ご観賞の上、1か月くらい経ってから再び当ページをご訪問くださることを強くお勧めします。
さて私は、かつて落語『粗忽(そこつ)長屋』を初めて聴いたときには次のような物語だった、と記憶しています。
〈ある長屋に住む、とある粗忽者の、つまりそそっかしい男のもとへ、ある日、同じ長屋に住むやはり粗忽者の男が大慌てでやってきて、
「おい、おい!」
「なんだい」
「さっきそこでお前が、死んでたぜ」
「えっ、俺が!? 俺、死んだか!」 
「そうよ。さっきそこの道でお前が行き倒れてのびて死んでるのを俺は見たんだ。で、なにはともあれ本人のお前に知らせようってんで、すっ飛んできたんだ」
「……そうか! そりゃよく知らせてくれた! どこだい」
というので、ふたりで現場へ駆けつけると、(ここがポイントなのですが)たしかにそこにはその男の死体。
「ああ、俺! こんな姿になっちまって」
というので、ふたりして死体を運ぶことになり……〉
すみません。
その後どうなるのか、忘れました。
いえ、決して、その後の展開を忘れたことを「シェーンの誤謬」だというのではありません。
たしかに、
シェーンの誤謬:人の記憶の中で物語が変質する現象。
というのが現段階での私なりの「シェーンの誤謬」の定義です。
しかし、話を途中までしか覚えていないという、取るに足らない、物の数ではない記憶違いまでをシェーンの誤謬などとオーバーに評価するつもりはありません。
問題は、ほんものの『粗忽長屋』のストーリーと比べて頂ければ一目瞭然な、あることなのです。
いろんな噺家さんが語る『粗忽長屋』をYoutubeなどで確認しますと、ほんものの『粗忽長屋』のストーリーは、おおよそ次のようなものだと言って差し支えないと思います。
〈ある粗忽者の男が、道で行き倒れたらしい一体の死体を発見。
その死人の顔が、同じ長屋に住むよく知った男の顔にあんまり似ていたため(ここポイント!)、てっきりその男の遺体なのだと早とちり。
ここまでならただの粗忽な人違いで済む話が、破格なのはここからで、
「今からひとっ走り行って、本人に知らせてきます!」
周囲の人がいぶかしがって止めるのも聞かずに走り出し、長屋へ帰って「本人」に、
「おい、さっきお前がそこで死んでたぜ!」
目の前に「本人」がぴんぴんしているのに、まだ気づかない粗忽者。
また、そう言われたほうも言われたほうで、あんまり粗忽者だから、
「そうか! 俺、死んだか。そりゃよく知らせてくれた!」
というのでふたりで死体を見に行き、
「ああ、俺。こんな姿になっちまって」
赤の他人の空似をてっきり自分の死体だと思いこんだ男は、仲間といっしょに死体を運ぼうとして、
「あれ? いま俺が担いでるホトケが俺なら、そのホトケをここでこうして担いでる俺は、いったいどこの誰なんだ」〉
はい、これが落ちです。
つまり、死体を運ぼうとした後、物語がどう展開したかを私が覚えていなくて実は当然だったのです。
なぜなら、話はそこでおしまいだから。
それはともかく!!
お判りでしょうか? 私の記憶とほんものとの違いが。
そう、ほんものでは、単なる他人の空似であって、超自然的・非現実的なことは何も起こっていないのです。
ただ、ふたりの粗忽者の粗忽ぶりが、超自然的・非現実的とも評価できるほどに顕著すぎるというだけです。
それに対して私の記憶は、ふたりの超自然的・非現実的なまでに顕著な粗忽ぶりが、ついに自然の法則をもねじ曲げ、設定そのものを超自然化してしまって、本人が文字通り本人の死体を担いで運ぶという、とんでもないアバンギャルディック不条理系フィクションとなっていたのでした。
これはいわば、手塚治虫的ナンセンス・ギャグといえましょう。
あるいは鳥山明の『Dr. スランプ アラレちゃん』に、おねしょを心配しつつも夜中にトイレへ行くことを恐れる子のもとへ、なぜかもうひとりの本人が現れ、「代わりにトイレへ行ってあげようか」と言うので、その通りにしてもらうも、自分の体内にはまだおしっこが残っており結局おねしょをしてしまうという話があったような気がする(これもシェーンの誤謬か!?)のですが、これなどにも近いかも知れませんね。
さて、すべての噺家さんと、落語を愛するすべてのみなさんに、こんなことを言って大変申し訳なく思います!
ほんものの『粗忽長屋』ももちろんとても面白いのですが、私が思いますに、どうにも私の記憶違いによる私の記憶の中の『粗忽長屋』のほうが、もっと面白いという気がしてしかたがないのです!
主役キャラと準主役キャラとの常軌を逸した粗忽っぷりが、ついには物語世界の設定さえをも常軌を逸するものにしてしまった。
この、物語展開そのものの粗忽っぷりこそが、むしろ『粗忽長屋』においては合理的であり、物語としてこれ以上ないほどにつじつまが合うように思えてならないのです。
実は、私が「シェーンの誤謬」を提唱している主な理由はここにあり、物語はシェーンの誤謬によってかえってつじつまが合い、合理化されていくのではないかという仮説に立たずにはいられないからなのです。
まさにこの問題に、これから末永く取り組んでいきたいと思います。
みなさん、どうぞよろしくお願いします。
私の考えに荒いところがありましたら、ぜひともご指摘下さい。
なにしろ手前、粗忽者でございますからハイ。

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