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学校に行かないという選択。「誰かを、自分の心配の対象にしないということ。」

「学校に行かない選択」をしている我が家の子どもたち。

「学校に行っていない」ということを、心配されることが、それなりにあったりします。

私の耳には入って来なくても、「学校にいってないなんて、大丈夫なのかしら?」と、心配してくださっている方も居るのだと思います。

でも、ホントに、本人も家族も困っていないし、心配していないのです。これは、なかなか伝わりにくいことでもあるのだと思います。

心配してくださる方にしてみれば、「自分がその状況なら、心配するし、不安になるから。」という前提があるのかもなぁ・・・と。

「心配でしょう?」は、「私なら、その状況って心配!」なのだな、と、勝手に脳内翻訳してみると、あまり気にならないことがわかりました。(自分比。)

そんな日常の中、男子の子育てを綴っていらっしゃる、「まさりさん」のこちらのnoteを読ませていただきました。

まさりさんは、男子二人のお母さん。我が家も男子が二人いるので、共感しながら、読ませていただいています。ユーモアを交えた投稿に、いつも元気をいただいています。まさりさん、ありがとうございます!

こちらのnoteの中で、お子さんの言葉の発達についてこのように書かれていました。

「でも、心配してない親にとっては、まわりから「心配しろ」とか「心配するべき」と思われるのは逆にプレッシャーになるというか…😅

乳幼児検診の問診でも、

「言葉の遅れがあって心配である」
という設問がありまして、これ、どっちに「丸」したらいいのか悩んだんですよねー。だって、

「言葉の遅れがあるけど、心配してない」
んですもん(・∀・)

世間的には『言葉の遅れがある=心配』は当たり前にデフォルトなのかー。

うーむ、私はこの設問、○にするべきか×にするべきか。
悩ましい。

結果、どう答えたかというと、答えのマルバツのところじゃなくて、設問の文章のところに下線を引っ張って「遅れがある=○」「心配である=×」と書いてみました。






「心配」というのは、ひとりひとり、心配のポイントが違うのだと思います。それまでの生きてきた長さも、経験もそれぞれなのですから、あたりまえ、といえば、あたりまえです。

そう考えると、自分が心配だからといって、相手も心配だとは限らない。


ある時、私の友人の5歳の娘さんが、「幼稚園に行かない」と宣言したと聞きました。

友人は、第一子が2歳になる頃から、家族で一緒に通うことができる幼稚園に通いはじめました。

第二子にあたる娘さんは、産まれて数ヶ月からずっとお母さんや、お姉ちゃんと一緒に幼稚園に通っていたのですが、お姉ちゃんが卒園し、小学生になり、妹である娘さんが、幼稚園に入園することになりました。そして、入園するなり、「幼稚園に行かない。」と宣言し、数ヶ月の間、お母さんと家で過ごしている、ということでした。

ただ、それだけのことなのですが、「幼稚園に行かないなんて、大丈夫なの?」と、孫を心配する祖父母に度々言われていたのだそうです。そのことに対して、友人はうんざりした様子でした。

実際に、友人も、娘さんも、幼稚園に行かないことで、何一つ困ってはいないようでした。友人は、家で、子どもと過ごす時間を通じて、幼児期をどう捉えるか、子どもの何を大事にしていくのか、など、色々感じ考える日々を送っていると私に話してくれました。

誰に言われたわけでもなく、「幼稚園に行かない」ということを、娘さんが自分で決めている。そして、それを受け入れているお母さんがいる。自分で、〈今、やりたいこと、やりたくないこと〉を決められるって、素晴らしいと思うのです。

なんの心配もないと思うけどなぁ・・・と、友人親子の姿を傍で感じていました。

しかし、おじいちゃん&おばあちゃんは、「孫が、幼稚園に行ってたら安心!」と思っているわけです。「もう、5歳なんだし、幼稚園にいかなくて、大丈夫なの?」「お友達とかも欲しいでしょう?」「色々と幼稚園で、教えてもらったり、経験しないとねぇ・・・。」と。

実は、その心配は、本人たちの心配な事柄ではなく、おじいちゃとおばあちゃんの心配な事柄だと思うのです。

私は、誰かを〈安易に心配の対象にすること〉を、とても失礼な事だと思っています。

〈相手に心を配ること〉と〈相手を心配の対象にすること〉は、明らかに違うから。

心配しなくてもいいことを心配することで、相手を「自分にとって、心配すべき、心もとない、頼りない存在」にしてしまう気がするのです。

本人が、心配をしていないのであれば、尚更、失礼な気がする。

子どもたちも、大人たちも、そもそも人間って、本来は、なかなかたくましい生き物であると感じるのです。私の想像する範囲など、軽く超えていく。

だからこそ、誰に対しても、安易に「自分にとっての心配すべき頼りない存在」にしたくない。

その人の中のたくましさを感じていたい。

〈根底にあるたくましさ〉を、信頼したい。

たまにですが、私が、子どもたちに対して、自分が心配だと感じたり、気になる事がある時には、「お母さんは、こういう状況で、気になるんだけど・・・」と伝えると、あっさりと、「え?大丈夫だよ。」と返ってきたりする。

そこで、「あ、私なら気になるけど、子どもたちは気にならないのだな。」とわかる。「じゃ、何かできることがあれば言ってね。」と伝えることで、〈自分が必要以上に心配に捕らわれなくて済む〉のです。そして、相手が本当に困っていたら、いつでも手を貸すよ!という心づもりができる。

心配する方々にとって「誰かを心配するということ」は、気遣いであったり、思いやりであったり、仕事上の責任感だったりすることも多くあると思います。また、自分が経験してきたから、同じ失敗をしないようにと考えることもあるでしょう。

「心配」というのは、問題の最中にある本人が「私は、○○で困っている」「なんだか不安。」と心配な状態を認識した時にこそ、形になり、本人以外の人が、相手にとって邪魔にならない手助けを考えるタイミングなのではないでしょうか。


昨日、二男の虫歯の治療に行きました。

前にも書いたことがありますが、歯科の先生はいつも明るく、屈託のない方です。

虫歯になりやすい二男の体質が気になり、治療を見学しながら、「乳歯が虫歯になりやすいと、永久歯も虫歯になりやすかったりしますか?」と先生に伺ったところ・・・・


「え?そんなことないよ。」


と、先生は、満面の笑み。

それ以上の説明もなく、会話は終了。

単純な私は、

「あ!そんなことないんだ!」

と、理屈抜きに安心しました。

このような〈心配に対する対応〉は、なかなか経験できないかもしれないなぁ。

先生が、虫歯になりがちな二男を心配の対象にしないのは、「今の虫歯の多さ」だけに目を向けず、「この先、成長と共に変わっていく身体や口内環境」に対して、長い目で見ているからだと思いました。もちろん、歯科医としての長い経験の中での言えることでもあると思います。


先に書かせていただいた友人の娘さんも、一年の充電期間を経て、今では「何があっても幼稚園を休みたくない!」と、通っています。

まさりさんの息子さん、幼稚園に行かないと宣言した子、虫歯の二男。

全く違うようですが、そうとも言えないのだと感じました。

人は、ずっと「どこかの過程」に居る。

だから、「今」をみつめつつも、「長い目で見る」という、一見すると矛盾するようにも感じる視点やまなざしが、人が育つ環境にひとつでも多くあれば、人は、もっとやわらかに生きていける気がするのです。

社会の中で、地域の中で、家庭の中で、子どもたちには勿論、大人たちにも、そんなやわらかなまなざしが、向けられたらいいなと思っています。





学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!