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学校に行かないという選択。その1。

我が家には11歳と7歳の男子がいる。春からは小学校6年生と2年生だ。
今のところ、二人とも小学校に通っていない。

長男が幼稚園の年中組、5歳の時のこと。
彼は遊んでいる最中、静かに「自分は学校に行かない。」と言った。

 その頃、彼と通っていた幼稚園は森の中にあり、親子で通い、お互いに学べる環境だった。産まれたばかりの赤ちゃんから、兄弟姉妹、祖父母も含め家族で通える場。

 そこでは、どんなに小さな人も「子どもだから」と軽んじられることなく、「一人のひと」として尊重されている空気が流れていた。私たちが神奈川県から札幌に移住するきっかけはこの幼稚園だったのだ。

 幼稚園には学校に行かない選択をした小学生も来ており、ちょっと疲れて学校を休んで来ている子どもたちの姿があり、当時は、学校に行かない選択があるのか、と少なからず驚いたものだった。

 長男と通いながら彼らの育ちを見るにつけ、人との絶妙な距離感を獲得していること、人への配慮の様子を感じるたびに「学校」とは何か?「学び」とは何か?を考えるきっかけがどんどん増えていく。そして「学校に行くという選択」「学校に行かないという選択」について考えるようになったのだ。

 そんな中での長男の「学校に行かない。」だったので、「あ、そうなの。」と然程驚くこともなく、「時期が来てみなければわからないことだからその時が来たら考えればいいや」と気楽にとらえていた。

 長男はあっという間に就学年齢となり、小学の一日体験入学の日がやってきた。

 親子別々に案内され、親は入学説明会、子どもは工作体験へ。子どもたちは先生に「はい、並んで。」と、二列に並ぶ事を促され「はい、行きます。」しかし長男はこの時、驚いた顔で私を見た。そして、「え?行くってどこに?お母さんも一緒に来てほしい。」と言ったのだ。

ーあぁ、そうか。

 例えば、ここで相手が大人である場合、「はい、並んで。」「はい、行きます。」とはならない。「並んでください、今から教室に移動して工作をします。」となるはずである。保護者は説明を聞いてくださいと先生に言われたが、入学説明は後でプリントを読めばわかるだろううと、長男と教室に向かった。

 教室では次に二年生になる子どもたちが新一年生のお世話をしようと緊張と期待の様子で待っていた。新入生を席に案内したり、お世話してくれる。工作の途中でも色々手助けしようとしてくれる。

しばらくそれが続き、上級生が長男がやっている工作を黙って手伝おうとした その時、長男はやや強い口調で言った。

「自分で出来るから。」

「子ども」である以前に「ひとりの人」として過ごし、尊重されることが日常である彼にとっては、「手伝おうか?」という確認がないことは、「彼がどうしたいのか?」という意思確認に欠ける事であり、自己の尊重が損なわれたと感じていたのかもしれない。たとえそれが親切心や義務感から来ている行為だとしても。

 その脇では、一緒に来ていた2歳の次男が自分もやりたいと、机を占拠し、一人前な様子でお兄さんたちから、ちゃっかりとハサミやらクレヨンやらを借り、紙コップのロケット作りをご機嫌な様子で自由に楽しんでいた。この日、学校を一番満喫したのは彼だったかもしれない。

 学校から歩いて帰る20分間の道のり、特に学校の話も話題にのぼることなく帰宅した。

 日々の中で、基本的に子どもたちに「どうだった?」とか「楽しかった?」と聞かないことにしている。「楽しかった?」と聞かれたら、大半の場合は「楽しかった」と応えるだろう。余程、不快な事がない限りは。

 「楽しかった」の中にはもっと複雑に感じ方があるだろうし、言葉にならないことは沢山あると思う。そして「楽しかった」という気持ちを複雑多様な言葉を以てして表現するには子どもたちのボキャブラリーはまだ少ないだろう。大人になったからといって細かく表現できるか、と言われたらそれも否、かもしれないが。

 何にしても、もっと自分の中で「楽しかった」なり「つまんなかった」なりを反芻して味わう時間が必要だと思うのだ。

 むしろ「楽しかった!」という答えを聞いて安心するのは大人の方なのだと思う。大人は子どもたちの「楽しかった!」という答えを知らず知らずに期待している。自分の安心感を満たすためにその言葉を投げ掛けてはいないだろうか?と疑問を感じた時から、私は、子どもたちにその言葉を投げ掛けないようにしている。

 「学校に行かない。」という長男を体験入学に誘ったのは「学校というものを体験しないで行くか行かないかを決めるのは違うかもしれない」と夫と話し合った末だった。 

 入学式にも家族で参加した。見知らぬ「おともだち」と手をつないで入場する事にも相当な違和感を覚えた様子だった。大人同士が「はい、手をつないで」と初対面で手をつなぐことは、ほぼあり得ない。

 それが〈子ども同士であれば別に問題ないでしょ。〉という考え方には違和感がある。子どもたちだって、初対面であれば、知らない人同士なのだ。学校は「既存の価値観」を「本当にそうなのかな?」と考えるきっかけを沢山与えてくれている。

入学後、三日間ほど、長男と一緒に学校に通った。

毎日「今日は学校どうする?」と確認し、「行かない。」と言われたら欠席の連絡を入れた。「体調が悪いのですか?」と聞かれ「元気です。」と答える。

 実際元気な訳で、嘘をつく必要はないと思っていた。私が嘘をつけば「学校を休むことは、悪いことであり後ろめたいことだ」と子どもが感じると思ったからだ。学校側にしてみれば「元気なのに学校に来ない」ということは、理解に苦しんだことだろう。

 そして学校に行く気の無さそうな長男に、毎日毎日繰り返し「登校するか否か」を確認するのにやや疲れを覚えた私は、お風呂の中で「毎日毎日、学校行く?行かない?って聞くのも聞かれるのも、なんだか疲れない?学校に行く時に教えてもらうの形にしていいかな?」と話した。長男は「あ、それでいいよ。そうして。」と快諾した。

学校には毎日電話連絡を入れた。

 次第に「今週は水曜まで休みます。」など期間を伸ばし、週に一度連絡を入れたり、週に一度は放課後にプリントなどを受け取り先生と顔を合わせた。放課後に時間をつくる先生たちも大変だろう、と申し訳ない気持ちになる事もあったが、優先すべきは子どもの意思である。

そんな日々が続いたある日、彼は言った。

「学校には、自分のやりたい勉強の仕方がない。」

そうか、そう感じたのか。

 彼の言葉から、「学び」とは、一方的なものではなく自ら自発的に学びたいという気持ちが無ければ成り立たないのだと実感した。そうでないと本来は、ワクワクし、自分の興味を広げ、世界を広げる手伝いになるはずの学びを、「つまらないものだ」と感じてしまうことになるのだろう。

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 そんな出来事から、いわゆる「ホームスクーリング」のような暮らしが形成され、今に至る。長男は自然環境ゆたかな幼稚園で昆虫に魅了され、今では「昆虫の事を一生やって暮らしたい」と言っている。

養老孟司さんの「虫捕る子だけが生き残る」という本は私の育児書かもしれない。

 子どもたちの興味に応じて様々な博物館や美術館、動物園に水族館に行く。そしてありがたいことに、生き物の専門家に知人が増え、彼の世界は広がり続けている。

 学校や先生を否定するつもりは全くなく、お互いの立ち位置が違うだけ、と認識している。学校のシステムの中で先生たちも矛盾や大変さを抱え、システムと保護者との板挟みになっていることも多いようだ。

 我が家は学校に通わない事で、先生方と顔を合わせる機会が増えた。

 雑談の中で出来るだけ互いの「人となり」を感じられたらいいなと思っている。学校には通ってはいないが、学校との関係は良好だと思っている。(私としては、だが。)

 良好な関係を築くことにエネルギーを使うのは、いつ、子どもたちが「明日から学校に行く」というかもわからないからだ。

子どもたちの居場所はひとつでも多い方が良い。

 コロナウイルスで学校の休校が続いた際、近所の同級生のお父さんが、家の庭で外遊びに興じていた長男をみかけ、「うちの子もゲームばっかりしてないで、外で遊べばいいのになぁ。」と言った。

すると彼は「ゲームばっかりやってても、元気ならいいんじゃない?」と笑って答えた。

今日も昆虫や生き物、自然を好み、共に暮らす長男がいる。

何処からどう見ても、間違いなく元気だ。

学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!