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漫画みたいな毎日。「〈楽しみましょう!〉で包まれた箱を開けるとき。」


子育てをしていると、目に飛び込んで来る、「子育てを楽しみましょう!」というフレーズ。

もちろん、子育てが手放しで楽しければ、それに越したことはないと思います。

そう思う一方で、子育てに限らず、もともと楽しいことであれば、「楽しもうよ!」と、わざわざ言わなくてもいいんじゃないだろうか?と、思う私がいるのです。

楽しむ と 楽しい 

この違いは、なんだろう?

楽しもう、楽しまなくちゃね、というのは、能動的であり、積極的で、自発的である。

こう考えてもみたのですが、どうもしっくりこないのです。もちろん、そういう前向きな部分も含んでいるとは思うのです。

「楽しもう!」という、その言葉に、「とりあえず、これに含まれている大変さには、ちょっと蓋をしておこう。」そんなを空気を感じてしまうことがあります。

何処かで、誰かが、「楽しもうよ!」と声高に叫べば叫ぶほど、楽しさの本質みたいなものから、遠くなる気がしてしまうのです。

「子育てを楽しみましょう!」

そのフレーズは、誰もが本当は知っている、うっすらと感じている、子育ての大変さをなんとか包み込み、覆い隠そうとしているのではないだろうか、と。


子育てに関して、政府や社会、子育てに関わる人が、子育てを全般的に語る時に、「子育てって、やっぱりね、ある程度は大変なんです。人間が一人、育つ過程なので。でもね、出来る限り、楽しんでいけるように、サポートしていきますんで!」とか言った方が、いいのではないかな、と思うのです。

大事なのは、決して、脅かすことも誤魔化すこともなく、ある程度予測のつく範囲での事実を伝える、ということだと思います。

それによって、「お、これは、ちょっと腹を据えていかないと、だめなのかも。」という、腹づもり、というか、ある種の覚悟の様なものを、なんとなくしたりする、すると、ちょとした余白みたいなものが生まれる気がするのです。


昔は、身近に子育てしている人が沢山いたり、兄妹がたくさんいたり、子どもというものがどう育ち、周囲の大人が、どの様に子どもの育ちに関わっているのかを実際に、自分の眼で見たり感じたりしていたのだと思います。

私が子どもの頃には、既に兄妹姉妹が沢山いる家庭は多くはなかったですし、祖父母と同居という時代でもありませんでした。

そういった経験する環境が昔と比べれば、少なくなっている現代において、「なんとなく、こころの準備をしておくこと」は大事な気がするのです。

人によっては、実際に協力者を探しておくとか、経験者に会って話を聞くとか、困ったら、あの人に聞いてみようと思い浮かべるとか、そういった準備が必要だと感じるなら、もしかしたら、ちょっと出来た余白の部分で、できるかもしれない。


ある時、私が12歳の長男に「もし、今、お母さんが赤ちゃんを生んだら、どう?」と聞いてみたことがありました。

すると、

「え~?赤ちゃんは可愛いから、嬉しいけど、大変だからなぁ。動き始めると、何でもいじるし。でも、産まれたら、面倒はみるけど。可愛いから。でも、自分もやることあるから、そんなに面倒みれないよ。」

と、返ってきました。

「可愛いけど、大変だよね。」ということを、彼は、弟妹の育ちから感じている。

では、弟妹の居ない末娘は、どうなのだろうかと思い同じ質問をしてみました。

「赤ちゃん?う~ん・・・すぐ泣くからやだ。抱っこはしてみたいけど。」

弟妹の居ない末娘も、幼稚園で自分より小さい人と関わる機会があったり、赤ちゃんがいったいどういうものなのかを知っているのです。

二男にも聞いてみました。

「妹はいるけど、弟は居ないから、弟がいたら、いいかな~って思うよ。妹は大変だけど、弟はどうなんだろう?」と大変さを感じていないはずはない、真ん中っ子の彼。受け入れ力がダントツにあるのか。

普段も意識してのことではないにしても、現在も、妹と一番関わってくれているのは彼です。妹が産まれた時、嬉しそうにあやしてくれていたっけなぁ。弟も、妹と同じ様に、いえ、それ以上に大変な可能性がありますよ、と心の中で思った母でした・・・。

捉え方はそれぞれでも、「赤ちゃんが産まれ、育つということは、どんなことか」を彼らは、肌で感じている。


人の育つ過程に関わることは、やっぱり、大変です。

それなりに、責任もある。

私自身も、3人の子育て真っ只中ですが、どう考えても、楽しいことばっかりではない。


「楽しみましょう!」という蓋で「大変さ」を閉じ込めた箱を、開けるのは、なかなか勇気がいることです。

でも、蓋が中からの圧力でドカンと破裂する前に、自分で開けてしまったらいいんじゃないかと思うのです。怖いもの見たさ的な勇気で。

開けてしまったら、「あれ?もっと大変なのかと思ったけど、何とかなった。」と思うかもしれないし、「意外と大変でもなかったかな」なんて思うかもしれない。その逆もないとは言えないけれど、見ないよりは、見てしまったら、不必要に構えなくて済む気がするのです。

私は、子どもの頃、天井の木の模様や、お風呂場の壁のシミが怖い顔に見えて、よく見ないでいると、もっともっと怖くなって、頭を洗うときにも眼をつぶることさえ出来ない、眠るときには、そこから眼をそらして眠る、そんな子どもでした。

でも、よくよく見たら、怖いオバケみたいに思っていたお風呂場のシミは、笑い顔に見える。天井の木の模様は、ただの木の節や木目だった。


蓋をしている限り、その箱の中はブラックボックスとなり、知らず知らずに、自分を脅かすのかもしれない、そんな気がするのです。


子どもの育ちに関わる中で、大変さや辛さが大きな比重を占め、どんよりとした空気が永遠に終わらず、繰り返すかのように感じられることもあります。

でも、一方で、〈大変さも煩わしさも含めて、いかに面白がれるか〉が〈育児の大変さを超えた喜びや面白さに繋がっていく〉と、どこかで感じてもいるのです。

子育てが〈ただ楽しいだけのもの〉であるとしたら、人が育っていくことは、〈こんなにも大変なんだけど、なんだか、面白いんだよなぁ。〉という、じんわりと、味わうような感覚にはならないかもしれない。

確実に、自分の思うようにいかない大変さが、この面白さに繋がっていると、私には思えるのです。

日々、子どもたちは、自分の狭い予測の範囲を軽く超え、いろいろな出来事が巻き起こります。そして、その事態が、自分の手に負えなくなったとき、人は、「自分でなんとかできる」「コントロールできる」という思い込みを手放して、新たな流れを受け入れることになるのだと思うのです。

そして、やれやれ、もう、仕方ないなぁ・・・ヨッコイショ。と、そこからまた日々を積み重ね始める。

私は、その子どもたちが軽く自分を超えていくその感覚がたまらなく好きです。これだから、子どもたちと過ごすのって面白いんだよね!と笑ってしまうのです。

子育てって、ホントに大変。

楽しいばっかりではないけど、面白い。

楽しいばっかりではないから、面白い。

お菓子だって、料理だって、ただ甘いだけじゃないほうが、深い味になる。

私たちの舌は、甘味も苦味も、辛味も酸味も全て網羅できるようにできている。

さてさて、今日も、ぼちぼち、やっていこうと思います。



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