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【掌編小説】根雪

子どもの頃からぼくの心は目に見えない何かに支配されている。遊んでいる時も、ご飯を食べている時も、勉強をしている時も、友達と遊んでいる時も、仕事をしている時も、テレビを見ている時も、見かけ上ぼくはその行為に専念しているようで、自分でもそのつもりでいるのだが、実はそうではないことをぼくも心の奥底でわかっていたのだ。春がきて雪が解けても、いつまでも溶けずに残っている根雪のようにぼくの心の底にはどうやっても拭いとれないものがべったりと付着して、24時間365日居座ってぼくを邪魔し続けているのだ。ぼくが気づけば人の顔色ばかりうかがって自分がやりたいことよりもむしろどうすれば人を満足させられるかばかり考えているのもその根雪のせいなのだ。ぼくはある日、道を歩いていてはっと気づいてしまったのだ。親しいふりをしていた両親、兄弟、友人、上司、それらをすべて実はきらいであることに。いや、嫌いというよりむしろ憎んでいるといっていい。憎んでいるのになぜ好きなふりをしていたのだろう。そうしないと、自分の身が守れなかったからだ。要するに周囲のすべての人のことが嫌いなので嫌いな人に嫌いと宣言すればぼくはまったくの一人ぽっちになってしまうのだ。だから好きなふりをするしかなかったしこれからもそうし続けるしかないのだ。でも嫌いな人を好きなふりをし続けると言うのは自分の本心にさからっているということで、いわばブレーキを踏みながらアクセルを踏んで無理に進もうとしているのと同じことなので異常なエネルギーを必要する。ぼくが何をするにもしんどいのはきっとそのことで自分のエネルギーを使い果たしているからだろう。まったく何の意味もないエネルギー。ある日、ぼくは、いてもたってもいられなくなり会社をやめた。一生懸命なふりをしていた仕事が実は嫌でたまらないことにも気づいたからだ。そして、会社を出たぼくは、昨日までと同じように家に帰る電車に乗ろうとしたのだが、その段になってからだが動かなくなった。嫌いな両親が待つ家になど帰りたくはないのだ。ぼくは逆方向の電車に乗った。電車はどこまでも走り続けた。海が見えてきた。海が見えなくなると山が見えてきた。山の頂上は白い雪で覆われていた。もう桜も咲いて昼間はぽかぽかと暖かい日が続いているというのに山にはまだ雪が積もっているのだ。ぼくは眠くなって目を閉じた。一面の雪野原が広がっていた。雪はまもなく溶けるだろう。そうすれば、ぼくの心の底に根強く居座っている根雪も姿を現す。これからぼくはその根雪を溶かす旅に出る。それまで家には戻らない。根雪を溶かして本当の自分になり、ぼくは新たなぼくとして再スタートする。そして、すべての奴らを消滅させるためにまた戻ってくる。必ず戻ってくる。根雪が溶ければどんな風景が広がっているのか、ぼくにもわからない。(了)

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