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【掌編小説】黒いバレエシューズ

 暑かったので、コンビニで抹茶のかき氷を買った。店の前のベンチで食べていたら、この暑いのに黒い厚手のパーカーを着たぎょろ目のぼさぼさ頭の男がやって来た。ぼくは、そいつのことを知っていた。同じ団地の真上に住んでいるやつで、確かタカノと言う名だ。大学を出て定職にもつかずに毎日映画ばかり見て過ごしているらしい。そいつは、コンビニに入りかけたところでぼくを見て、おっ、という顔をした。タカノと口をきいたことは一度もなかった。
「おまえ、たしか光峰高の二年だったな」
 タカノはぼくに話しかけてきた。おまえ、と呼ばれたのが気にくわなかったが、ぼくは、うなづいた。無視なんかすれば何かされそうな危険な気配がした。少し前に近所で野良猫の惨殺死体が何匹も見つかったことがあり、その犯人はタカノだとの噂を聞いたことがある。
 バイトをしないか? タカノは隣に座って、ぼくの顔をのぞきんで言った。
「バイト?」
 毎日仕事もしないでぶらぶらしているクセに、お前がバイトしろよと言いたかったが、もちろん、黙っていた。
「中道瑠理子を知ってるだろう?」
 知っているも何も同じクラスだ。身長がぼくよりも高くて、どこかマネキンめいた人工的な感じがするすごくおとなしい女の子だ。ぼくはしゃべったことすらない。
「あいつのバレエシューズが欲しいんだ。盗んできてくれたら十万払う」
「バレエシューズ?」
 彼女がバレエなどやっているとは知らなかった。ダンス部はあるがバレエなんかやっている人はいないので、どこかに習いに行っているのだろう。タカノによると、中道瑠理子は、毎週水曜と金曜の放課後、駅前のバレエスクールに通っているらしい。冗談なのかからかっているのか、ぼくは適当に聞き流していたが、タカノはどうやら真剣らしかった。十万円という報酬にぼくの心は動いた。十万あれば、ずっと欲しかった最新型のゲーム機を買ってもおつりがくる。気になるのは、このひきこもり男が十万という大金を払えるのかどうかだが、ぼくの心を読んだかのように、タカノは、財布の中身を見せた。万札がぎっしりと詰まっていた。
 結局金に目がくらんだぼくは引き受けることにした。なぜ彼が中道瑠璃子のバレエシューズなど欲しがるのか疑問だったが、十万円もらえさえすればそんなことはどうでもよかった。
 次の水曜日、ぼくは体調が悪いことにして体育を休んだ。そして、誰もいない教室に忍び込み、中道瑠璃子のロッカーを開き、バッグを探った。奥の方に墨みたいに黒いものが見えた。バレエシューズだった。バッグに手を入れてシューズを引っ張り出した、その瞬間、意識の底によくわからない衝動がこみあげてきた。気づけば、バレエシューズを鼻に押し当てていた。甘いようなすっぱいような香りが鼻孔をくすぐり、頭がぼうっとしって、ペニスが痛いほど硬くなった。
 バレエシューズをリュックに押し込み、放課後、団地に帰ると、一階のエレベーターの前でタカノが待ち構えていた。
「カバンの中を探してみたけど、見つからなかったんだ。また金曜日にトライしてみるよ」 
 ぼくは、でまかせを言った。彼女のバレエシューズは誰にも渡したくなかった。
「嘘つけ」
 タカノがぎょろ目をさらに見開いて言った。
「さっきスクールをのぞいてきた。彼女は白いシューズで練習していた。スクールの備品だろう。彼女の黒いシューズはお前が盗んだんだろう」
 タカノが、ぼくのリュックに手を伸ばしてきたので、とっさに身をかわして、がむしゃらに走って逃げた。
 それからぼくの放浪生活が始まった。あれから二週間たつが一度も家に帰っていない。タカノの目をあざむくために、毎日朝から晩まででたらめに歩き続けているので、今いる場所がどこであるのかさっぱりかわからなくなっていた。夜は公園のベンチで寝ているが、少しも苦痛ではない。なぜなら、中道瑠璃子のバレエシューズの香りをかいでいるだけでぼくは幸福だからだ。タカノは必死になってぼくを探しているだろう。絶対に見つかってたまるものか。どこにだって逃げてやる。十万ぽっちの金などどうでもいい。中道瑠璃子のバレエシューズのためなら命だって惜しくない。(了)

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