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「中学の勉強って役に立たなかったよね」

年末、地元の忘年会で顔を合わせた、看護師一年目の友人がポロリと言った言葉をなぜか忘れられず。


わかるー!とテンション高めに相槌を打つ保育士3年目の友人の横で、氷が溶けて薄くなったレモンサワーを一気に飲み干した。


そして、

そのもやもやは、2020年になったいま現在まだなんとなく消化しきれていない。



彼女たちの言うことは理解できるし、確かに、苦手な数学の方程式を使って何かを解決してきた事例も、今までなかった。


でも、それでもなにかしっくりこなくて、ふわふわした頭でずっと考えていた。


私は今、残り数ヶ月の大学生活を終え、社会人へと肩書きが変わる、一歩手前にいる。


義務教育期間の勉強は、得意な方だった。学年で一桁をとったこともある。でもそれは、努力した方だった、という方が正しいかもしれない。(その後高校に入った後、真っ逆さまに成績が落ちて、目も当てられない状況になった話はまた別の機会に、笑)


今から私が書くことは、私の個人の意見であることを重々踏まえた上で読んで欲しい。


たぶん、義務教育での勉強の在り方って一種の「自分を守るための武器」だと思う。


少なからず、私は親に「何かで一番だったら虐められないから」と育てられてきた。


私の学校は公立のよくある地元の学校で、やんちゃな男の子もそれなりにいたし、女の子同士のいざこざもしょっちゅうだった。


そんな中でも顔も地味で鈍臭く、絵も音楽も秀でていない私がターゲットにされるのは時間の問題だったと思うし、自分でも、なんとなく、そういう雰囲気をわかっていた。


別に、だからといって虐められている子が勉強ができないとか、努力不足だとか、全くそういうことを言いたいわけではなくて、ただ、私にとって勉強だけが、後付けで身につけることができる「武器になりうるかもしれないもの」だった。


看護師になったHちゃんは顔が特別可愛かったし、保育士のSだってピアノが弾けた。


そういう些細な私を守ってくれる武器が、私にはなかった。


だから、中学の勉強が後から何に役に立ったのかと言われるとその後にはなんの役にも立っていないかもしれない。でも、当時は確かに、役に立っていたのだ。


なんでもいいんだと思う、それが一発芸のできるヤツでも、足の速いヤツでも。


義務教育期間でさえ、何者かであることを無意識に考えていたことに、少しだけ悲しくなった。



レモンサワーを片手に、noteの初投稿。





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