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ばいばい、下北沢。

「どこに住んでるんですか?」

「下北沢です」と答える度に、こわばった体が少しずつ楽になっていく気がした。中央線沿いでもなくて、東横線沿いでもなくて、絶対に絶対に下北でないとだめだった。家を探す時に、「下北沢にこだわる人って、洗濯機が外でも木造でも絶対下北がいいっていうんですよ」と不動産の担当者が笑っていたけど、私にとってあの街は“そういう街”だった。小説の『もしもし下北沢』(このnoteのタイトルにかかっている)で描かれる、どこか懐かしくて、どうしようもなく狭くて広い街。

恋焦がれるようにずっと住みたいと思っていた街の一部になった日から、はや数年。私が下北にやってきた頃の知り合いは、もう誰もいない。みんな結婚したり、引っ越したり、自分の人生の中のタイミングで街から離れていった。さよならを言った人もいたし、言わなかった人もいた。

都市開発が進んで、古い個人の喫茶店はどんどんなくなって、チェーンの激安古着屋が視界を覆うように増えていった。新しい風が吹くことに対して「(僕や私の)知ってる下北じゃない」みたいなセリフは飽きるほど聞いたけど、私は今の下北の方が好き。ありえないほど美味しいピザ屋ができたから。スクラップアンドビルド、大賛成。というのは嘘じゃないけど、そうじゃなきゃ、この街での思い出全部が亡霊みたいに自分の中の影から消えない気がするから、が本音。

気にしていないふりをする癖に人一倍人の目が気になる自分にとって、派手な柄物の古着も、いわゆる普通の接客業なら客にブチギレられるような髪色も、そういういろんなものを楽しんで自分の色にしている街の人も、何もかも憧れだった。会社をサボった平日の昼間に店で見かけるような「この人はなんの仕事をしているんだろう」っていう人に、自分もなりたかった。

もちろん、今だったらわかる。会社に属していたって、属していなかったって、どこに住んでいたって、結局その人のアイデンティティは場所にはないってこと。ただ、当時の私は今よりもずっと幼くて、会社の看板を剥がされたら何も残らない自分を、社会の大きな見えない流れにどんどん飲み込まれていく自分を、心底許せなかった。でもそれが自分の本質じゃないと思えるほどの強い何かが、あの頃の自分にはなかった。

下北沢に来て、随分たくさんの人に出会った。そのどれもがいい思い出ばかりではないけれど、概して街に眠る思い出なんて、この土地じゃなくてもそんなものだと思う。振られた時の場所とか、辛かったことがあった時に観にいった映画館の最寄り駅とか。そういう仄暗い何かがふっと香る街なんて誰にでもあるわけで。その小さな綻びのようなものが、私の場合は一つの街に集約されている、ただそれだけ。そしてそれ以上のうつくしい思い出の煌めきが、街の至る所でずっと自分を見守っていた。

新卒で入った携帯販売の会社は、とにかく「怒られること」が仕事だった。制服の袖に手を通し、ひたすらに携帯を売る。客は店に怒るために来ているのか、というくらい怒られたけど、夜になると、もはやそんなことはどうでもよかった。小田急線は下北沢で降りて、3コインズの前を颯爽と走って、古着屋で働く友達を迎えにいく。閉店後の貸切になった店で、いろんな服を合わせてもらう。形が可愛い服、ヘンテコな服、生地が高そうな服……そのどれもが素敵で、“世界に一つ”しかなくて、販売員の制服を脱いだ自分がどんなに自由なのかを知った。

ファッションショーに飽きたら、安い居酒屋を梯子して、最後はセブンの檸檬堂を吸いながら、駅前の階段の一番上でワン缶。賑わう下北の街を見下ろすと、知らない酔っぱらいの声が下から響いてきて、少し冷たい風が頬を撫でていく。家族からも仕事からも切り離された、私と彼女だけの居場所がある。その事実だけで、安心して眠ることができるような、贅沢な時間だけがただゆっくりと流れていた。

とある映画のパンフレットで、マヒトゥ・ザ・ピーポーが、下北を「夢の墓場」と表現していたことが、ずっと頭に残っている。叶わなかった夢が、死んでいく場所。死んだ夢は、誰かの中にまた生まれて、若い身体の中を駆け巡っていくのだろう。そうして、また別の誰かが叶えられなかった夢を背負って、私たちの挑戦は続く。

先月、ついに自分の番が来た。一生下北にいる、なんで本気で思っていたわけじゃない。それでも、自分が違う街に住むことを想像できないくらいには好きだった。新しいお家は小さなお店がひしめく飲み屋街にあって、オレンジの光が温かく部屋に広がるお気に入りの家。モンステラの新芽がひょっこりと顔を出して、日々確実に進む時間を刻んでいる。街が変わると、人も変わる。人が変わると、自分も変わるのだろうか。少しだけ、変われたらいいなと思う。あの駅で降りなくても、私はもう、ゆっくりと息を吸えるはず。




2023.12.28
すなくじら


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