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3分だけ、独り占めさせてよ

死んだように眠っていた。こういう時は大概夢を見ないものだけど、過去の教室の風景を広がる夢の暗闇に見た。柔らかい光が窓からはいる教室で、中学のときのだっさい灰色のチェックのスカートが懐かしく、次々に昔のクラスメイトが話しかけてくる。でも、その中の一人すらわたしの現実にはもういない。彼らは今、何をしているのかもわからない。

人との会話を、脳内で反芻する癖がある。というより、臨機応変に会話のキャッチボールをすることが苦手なので、あとからゆっくり考えて消化していく作業がどうしても必要になってしまう。自分の心の花壇に、誰かの言葉が根付くまでの時間を含めて会話だというのならわたしは一人で永遠に会話をしているような気もする。だからこうやって書いて、会話の顛末を答え合わせのように日々自分用に残している。

豊かでありたい、と常に思う。もちろん精神的にという意味が1番しっくりくるのだけど、欲張らないある程度で経済的に、そして自分の目指す到達点への満足度の健全な自己評価としても。こんなに欲張りなまま大人になってしまって、いつか限度という名の網にひっかかった魚のようにぴちぴちと跳ね上げて苦しく死んでいく事が怖い。

noteでもクライアントに渡す原稿でも、もっとその先、公開したオフィシャルな記事でもテキストを書くことに対して「これを読んでもらっている間は(彼・または彼女・そしてこれを読んでくれているあなたの)貴重な人生の数分をわたしだけに向けていてくれる事実」を考えるようになった。それはやはり少し怖い。でも一方で、なんて贅沢なことなんだろう。人の心を縛ることはできないけれど、文章を書くことでその人の日常の一部にほんの少しだけ入れてもらえる。この広い世の中を生き抜く中で自分だけを見てくれる人間の存在なんて親ですら有り得ないはずなのに、文章でならそれは可能で、現に今、言葉を読んでくれている誰かは他の何かの生活の営みを止めて、わたしだけを見ていてくれている。

会社で編集者の仕事をしながら、ずっと編集の仕事はあまり向いていないのではと思うことがあって。それは単に「書くことが好きだからライターの方が」というシンプルな理由故かと思っていたけれど、じゃあ何で書くことが好きなんだろうと思った時に、結局はテキストを通じてその向こう側と対話することが好きだからに尽きるのかもしれないと思った。わたしを見て欲しいという歪んだ承認欲求にも聞こえてしまうかもしれないけれど、知らない誰かの日常の中に自分が潜り込めることの素晴らしさには叶わない。

似たところで言えば、よく人に本をあげてしまう。これも癖のようなもので、気に入った本を人にあげてまた自分用に買ったりする。なるべくその人に寄せたチョイスをするのだけど、その本がある人生というか、例えばおすすめの映画もそうかもしれないけれど「わたしの片鱗」がちょっとだけ調味料の味付けみたいにふとした瞬間に感じてもらえる生活に、ロマンを感じる。その瞬間にわたしが立ち会えなくても、香水の匂いで人を思い出すように片鱗がふわっと香る、そういう残り香を文章に留めたい。

どうでもいい話なのだけど、今朝、楽しかった記憶でふわふわする睡眠不足の頭を引き摺りながらコンビニに向かうと、なんと会社の人とばったりでくわした。「すっぴんで出歩ける距離の貴重なコンビニ」だったので、今後その会社の人に会ってしまう可能性があることには正直ちょっと萎えた。ところが驚いたのは、わたし自身その人に「お疲れ様です」と言われるまで、会社の人だと気が付かなかったことだ。ぶっちゃけ、何となく見たことある顔だったのでそのコンビニの店員がオフで来ているのかと思った(でも「お疲れ様」はだとしたらおかしいし……)。

一定の距離以上の人への興味のなさ、でいうならば進撃の巨人の3枚の壁のうち、ウォールシーナ以外の人間に興味が持てない。真ん中の1番小さい範囲。でもそれでいいんだと思う。ウォールシーナから、長い長い手紙を出していくことが、わたしの仕事で今の使命だから。




2022.11.19
すなくじら

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