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「大丈夫」がほしかった私と、ネガティブケイパビリティ

崖っぷちでギリギリ踏ん張っている人に正論とか対策は必要ない。
ただ「大丈夫」の一言がほしかったんだ。

支えたいと思う人に対して、そしてその人がいまにも倒れそうで助けを求めている時、みなさんはどうしますか。
どんな声をかけますか。

私は、「大丈夫だよ」と言ってほしかった。
パンパンに膨らみ切った風船が破裂しそうで、そのときはどうしても落ち着く必要があった。

そう言ってほしいとわざわざ口に出して伝えたのだけれど
「『大丈夫』という言葉に責任が持てないからそんなことは言えない」と、その人は言う。
無責任に発することはできない、と言う。

目の前に落ちそうな人がいるのに。
手を差し伸べない、差し伸べた後の責任が持てないから、という意味だろうか。

相手との関係性によるだろうけど、家族のような密度の濃い関係においてはどうなんだろう。
私だったらいろんな意味を込めて「大丈夫」だと言うだろう。
私が手を貸すから大丈夫、ダメになっても私が受け止めてあげるから大丈夫、というイメージ。

現に、相手がうつで人生の底辺にいたとき、私は絶対的な自信をもって「大丈夫」って言葉にしていた。でも、これも危険なことだったのかな。
「大丈夫」と支えているつもりだったけど、「大丈夫だからやってみろ」と突き落とされている感覚になることもあったそうだから。

何があっても私だけはいるし、大丈夫な私がいるから大丈夫、的な漠然とした、それでも確信できる「大丈夫」が私にはあった。
そこには「責任」ももちろんあった。
どこまでも責任をもってあなたをケアするよ、という気持ちが。

言葉ひとつとっても、感じ方って本当に人それぞれ。
まるで解釈が違うし、使い方も違うから難しい。
こういう感覚を共有できるもの同士はうまくいくんだろうな。

「こう思った」「こうしてほしかった」と伝えたとて
「それはこういう解釈だから無理です」といわれるの、そろそろキツイ。
趣味趣向の類なら全然アリだけれど。

ピンポイントで大事なとこだけは、
なんとなくでもいいからわかりあえたほうがいい。
こんなに時間をかけて説明してるうちに、崖から落っこちちゃいますよ。

余計に神経すり減ってしまった。
ま、そもそも他人に頼るなよ、ということなんでしょうけど。
否、他人じゃねーし。
他人だったら求めないし、ほしい言葉かけてもらえなくても平気です。

タイムリーに出会ったネガティブ・ケイパビリティ

今回の「大丈夫」案件、ネガティブ・ケイパビリティと深く関係しているなと思った。
「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「答えの出ない事態に耐える力」のこと。

帚木蓬生さんの「ネガティブ・ケイパビリティ~答えの出ない事態に耐える力~」を読んでいる最中だった私には、タイムリーな出来事だったなと思う。

幼いころから問題解決能力を高めることばかりを考えてきた。
何か起きてもなる早で対処できる力、答えが用意されているものに正しく早く回答する力(=ポジティブ・ケイパビリティ)ばかりを養って大人になった。

だけど、大人になってみたら「答えが用意されていない問題」や「すぐには答えがでない問題」ばかり。
つまずいて戸惑う。

帚木さんの本に出会ってしっくりきた。本当に必要なのってネガティブ・ケイパビリティだ。

帚木さんは精神科医なので、治療の現場での話が中心ではあるけれど
これは日常にもかなり応用できる、というか日常にこそ養っていきたい力だと思う。
忘れないように、大事だと思った点をまとめておこう。

楽観的な脳みそと「日薬」と「目薬」


【人間の脳は楽観的】
ヒトの脳は、絶望よりも希望をもつようにできていると書かれていた。
何十万年にもわたって生き延びるうちに、脳がそういう方向に進化したのだという。
明るく楽しい未来を想像することで活発になる器官があるらしい。
ただ、うつ病だとこの働きが低下してしまうのだとか。
本来の楽観的な脳みそが鈍っていると感じたときは
誰かにそっと声かけてもらったり、手助けしてもらえたら嬉しいよね。

【日薬と目薬が重要な要素】
治療の現場では“日薬”と“目薬”が重要な要素ということも書かれていた。

日薬とは、簡単に言っちゃうと「薬が効いてくるのに時間がかかる」とか「時間が解決してくれる」とか、なんとかかんとかやっているうちに好転する可能性があるよ、ということ。

目薬は、「あなたをちゃんと見ているよ」、「見守っているよ」という医者の目だという。


結果、何がわかったのかというと
すぐには解決しない問題において、じっと耐える力が必要ってこと。
それに耐えるためには、“目”が必要っていうこと。
「あなたのがんばりを見てるよ」「見放さないよ」という姿勢や声かけによって、苦しみを耐え抜くことができるのだってこと。

そして私はそれを「大丈夫」という言葉に求めていたんだってこと。

「大丈夫、ちゃんと見てるよ」
「大丈夫、きっとよくなるよ」

その言葉を糧に、崖っぷちでも踏ん張れる気がしていたんだよね。

そこに「責任」などなくてよかったんだ。



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