見出し画像

撮影初日に起きた金箔NG事件も、楓の方(原田美枝子)が次郎(根津甚八)を押し倒すシーンの演出も撮れていなかった。

 ところで、『乱』のクランクインは昭和59年(1984年)6月1日だった。我々が合流したのは7月1日の姫路城ロケからだ。つまり、丸1か月行われたスタジオ撮影の記録は皆無だったのだ。だから、撮影初日に起きた金箔NG事件も、楓の方(原田美枝子)が次郎(根津甚八)を押し倒すシーンの演出も撮れていなかった。「高倉がやっていたら、こうは出来なかったね」と黒澤監督に言わしめた鉄(井川比佐志)が狐の首を届けるシーンも、である。ビデオ取材班の参加決定に最も尽力してくれた井関惺プロデューサーの「アマチュアチームの彼らをセットに入れるのは流石に無理がある」という判断からだった。  
 画して若きプロカメラマン谷口裕幸さんを中心に、企画者の中山さんと録音兼ビデオデッキ持ちの河村が三人で、『乱』の製作記録を全150時間分の3/4Umaticビデオ(20分×450本)に収録する運びとなった。使用した機材はHITACHHI製の三管カメラとSONY製のポータブルビデオデッキ、Audio—Tecnicaのマイクだった。三脚は木製で重かったし、勝手がわからず、初めはバッテリーもビデオテープも大量に現場に持ち込んだので、それを運ぶのが大変だった。後にバッテリーは各自2個、5本のビデオテープで十分だという事となり、現場のディレクションが全く出来なかった中山さんは1ケ月後には大阪に帰された。
 当初は中山さんが書いたシナリオ形式の企画書に沿って撮影しようと計画したが、黒澤監督から事前に注意されたのが、基本はAカメラの後ろから撮影する事だったし、極力撮影の邪魔にならないで、目の前で起こる事象を丁寧に記録する事に徹した。そうなると三人目が邪魔になったのだ。中山さんは大阪で撮影済みのビデオをチェックしてOK出しをやる役目に回った。ところが、終わってみると編集に必要な各ビデオテープに収録された撮影内容の記録さえ、中山さんからメモ一つ上がって来なかった。何故そうなったのかは未だに謎である。

ありがとうございます。https://tokyowebtv.jp/