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母の2年間の入院生活をざっくりと。

こちらの文章ははてなブログにて
2022年2月から書き始めた闘病記です。
場所を移しこちらで続けることにしました。

文章の最後に日付を入れます。
最初の頃は移動させた記事がメインになりますが
近況もお伝えしていきます。
よろしくお願いします。              

私の家は2歳の頃に親が離婚。
幼少より母子家庭で育ちました。

父親と会う習慣もなかったので、
顔は覚えていません。

そんな私にとって母は、
母親でもあり父親でもある存在でした。

仕事をいくつも掛け持ちしながらも
土日は一緒に出掛けてくれる
そんなエネルギッシュな母でした。

そんな母が体調を崩したのは
2019年の初夏。

初めは発熱と関節痛、
次第に皮膚の点状の発赤。

かかりつけの病院を受診し
採血検査の結果、
詳細の検査入院をすることに
なったのです。

検査入院では膠原病との診断。
幸い命に関わる状態ではなく、
ステロイドの内服治療を開始し、
退院となりました。

退院したのも束の間、
2週間程度で今度は食事が摂れなくなり
しまいには動けない状態となりました。

東京で働いていた私ですが、
緊急受診のため帰省しました。

その日のうちに小腸に炎症が
あることが発覚。
そのまま入院となりました。

そこからは怒涛の日々で、
今こうしてゆったりと腰を据えて
ブログを書いている未来がある
なんて想像もできませんでした。

すぐに訪れた再入院。
点滴を開始して一時は
元気になりました。

しかし、ほんと数日後に
小腸の浮腫が悪化し、
腹水・胸水が急激にたまり、
原因不明の状態悪化が進行しました。

当時の内視鏡検査では
小腸の絨毛(栄養素を吸収する襞)が
ほぼない状態で広範に炎症を
起こしていました。

小腸の絨毛は消化・吸収に重要な部分。
当時は食べても何も消化できないし
吸収できない。

毎日続く水様便、嘔吐。
そんな日々に一変しました。

夜21時過ぎに主治医から
連絡が来た時には、
生きた心地がしませんでした。

看護師だからこそ分かる。
夜に医師が電話する時に
いい報告なんてないのです。

いよいよ大変な状態に
なっていることを実感しました。

その連絡を受け、
すぐに勤務の調整をしてもらい
面会に向かいました。

呼びかけても
反応なくただただ横になっている母。

入院当時からは考えられないほどに
全身はむくんでいました。

主医師からは、
大学病院への転院を勧められました。

数週間経過しても原因不明。
状態が悪化し続けている現状に
地域の中核病院では
手に負えない状況になっていました。

そこからは、大学病院の転院先を探す日々。

運よく都内の大学病院の転院が決まり、
救急車で長い道のりを移動しました。

医療職であっても
サイレンの鳴る救急車に
同乗するのは初めての経験でした。

こうして始まった大学病院での
入院生活。

感染症を起こして、
敗血症(細菌が血流に乗って全身を脅かす病態)となり、
ICU(集中治療室)で1か月ほど過ごしました。

それからは対症療法に頼る日々で、
有効な治療法が見つからないままに
(難病なんだから治療法ないのは前提ですが(笑))
約3か所の病院を転院しました。

様々な検査を繰り返し、
TNF-α阻害薬や生物学的製剤と
呼ばれる薬を使用し治療したものの
改善はなし。

セカンドオピニオン、
いやフォースオピニオンというのでしょうか。

たくさんの病院を訪ねて、
良い治療法を探し続けました。

入院治療こそは断られましたが、
治療法について意見を下さる病院があり、
その治療を試すことに。

治療は奏功し
少しずつ少しずつ小腸の炎症は
改善していきました。

炎症は改善したものの、
高度の狭窄が複数あり、
経口摂取はほとんどできません。

CVポートを造設し、
在宅IVHをする運びとなりました。

経口摂取を目指していた母にとっては
CVポートの造設は
ショックが大きかったと思います。

将来的には手術が必要になる可能性も高く、
炎症性腸疾患の手術経験の豊富な病院で
意見を聞かせていただきました。

現状の全身状態では
手術リスクが高く、未経験の手術になるため
命の保証はできませんとの返答。

そこまでで、母が入院して
約2年が経過していました。

「治るかもわからないのに、
  命かけれない。家に帰りたい」

2021年夏、ついに退院することとなり、
在宅医療や訪問看護などの地域サービスを調整し、
無事に退院となりました。

ざっくり2年間の振り返りでした。

以降は、その時その時の出来事を
もう少し深堀りして
お伝えしていきたいと思います。

では。

2022/2/9

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