「幼馴染はアメリカへ」松本圭二「タランチュラ」岡田隆彦『巨大な林檎のなかで』日記20240514

幼馴染が仕事でアメリカに行った。一週間。お土産は詩集とアメコミのグッズを頼んだ。治安が心配だから、買えれば、でいい。LINEが来たが、寒いと言ったり暑いと言ったりしている。大丈夫だろうか。頼んでいた映画『異人たち』のノベライズ(山田太一の英訳ではない)は見当たらなかったらしい。ジュンク堂や紀伊国屋で買えるだろうから、別にいいけど、松本圭二「タランチュラ」みたいな感じで、アメリカの空気に触れた詩集が欲しかったのだった。俺のアメリカの本屋のイメージ(実際はニューヨークの古本屋だが)はこの小説から出来ている。よそ者は買えないんだ。つまり幼馴染が、俺から頼んだ詩集を買うことはできないだろう。それでも頼んでおきたかった。その辺の書店で超有名詩人の廉価版の詩集を適当に見つけ出して買うくらいは容易いのではないか、友よ!よろしく!そして古本屋には入るな、どうせ買えねえ!

「ケントさん、探してた本、見つかった?」
「おう見つかった見つかった、いっぱい見つかった!」
 嘘だ。
 全部嘘。
 室井の心のなかはこうだ。
……べつにそんな本が欲しかったわけじゃねえよ。どうせ英語の本なんか読めねえし。でもさ、せっかくここまで歩いて来たんだ。何か記念に買っておきたいじゃねえか。それに、少しは美都の歓ぶ顔だって見たいじゃねえか。そういうことだよ。

松本圭二「タランチュラ」p87

俺と幼馴染の気持ちを日本とアメリカで繋いだら総体的にこんな気分なのかもしれない現在。

そして俺は、岡田隆彦『巨大な林檎のなかで』を読んだ。半年ほどアメリカで過ごすなかで出来た詩が集められている。
浮かれすぎだと思う。
端々から感じる。

三月十八日、たぶん華氏六〇度。
晴れすぎていて、フライデイ。

「ベイ・ブリッジを渡って」

「晴れすぎていて、フライデイ」なんて日本にいたら書けない。くだらなすぎる。アメリカにいるひとが書いていると思うからギリ読める。そんな境地だと思う。ただそれは岡田隆彦もわかっていて、

行く前から計画していたように、日常的な感覚に従うまま、ことばを書くことにした。といって、異邦でのわたしの時間はそのままで非日常だったが、とにかく語彙を慎重に選んだり、推敲したりしないで、ごく散文的に描きたかった。(…)
 読みかえしてみると、いつも以上に惨憺たるものがあるが、どうにも書き直しができないようなことも伝わってくる。

「おぼえがき」

俺がアメリカに行ったら、松本圭二的サッドバケーションでいるか、岡田隆彦的ハッピー野郎でいるかと言われたら後者だろう。浮かれるに決まっている!初めての海外旅行のサイパンでも、ヨーロッパにいた二週間も、新婚旅行のバリもほぼ浮かれていた。その時、詩を書かなくてよかったと思う。書いたとて誰にも読ませられない。やはり、日常のなかで、毎日決まった時間にパソコンに向かい、詩を書きたい。それまでのインプットをその時々で局地的に爆発させる。マイケル・ベイの映画みたいな詩の書き方が良い。

でも、浮かれて詩を書くってその時だけは最高の気分だろうなとも思う。アメリカに行くことがあれば書いてみようか、な。

「こんな陽気は人間向きじゃない。
ポーじゃなくたって
きついのをやりたくなるさ。
アイス・キューブを忘れなさんな。」
この口髭野郎、
何もこんなところでポーの名を
想い出させるな!
「サンクス、
これで海中の都市(ルビ:シティ・イン・ザ・シー)にもぐれるさ。」

「リキッドが記憶する灼熱日」

友よ、浮かれて過ごせ!




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