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いじめられていた新興宗教の女の子の話

※作品はフィクションであり、実際の国家、社会、組織とは一切関係がありません。
※作品は特定の人々の肯定や否定するものではありません。また、特定の差別を助長するものではありません。

【1】

 礼子と初めて出会ったのは、教会の休憩室だった。

 幼い頃の俺と彼女----正確には「俺の両親と彼女の母親」は、同じ宗教施設に出入りしていた。
 宗教と言っても、皆がよく知っているほど有名なものではない。
 俺と礼子が通っていたのは、いわゆる新興宗教という奴だ。

 
 それなりに有名な世界宗教の要素をかき集めたつぎはぎだらけの教典、見たことのないような方法のお祈り。そして、それらをありがたそうに享受する大人たち。
 お祈りをするための施設だって"いかにも"という見た目だ。建物はこれまた色々な宗教建築の詰め合わせ。統一感のないデザインや色合いの中で”厳かさ”だけをなんとか抽出したような造形。そんな異国情緒あふれる作りとは対極的に、その周りは何故か絵にかいたような日本庭園だった。
 新しい信仰というものは、ごちゃ混ぜにした絵の具のようなものなのだと思う。一つ一つが鮮やかな色であろうと、それらが乱暴に混ざった場合、結局は不気味な色へと変貌する。それに似ている。
 何もない田舎町に突如現れるそんな風景は、一般の人にとってはグロテスクで近寄り難い異物だ。そういった部分が偏見を助長していることに彼らが気付いているのかは知らないが。
 どうしてこんなアクセスの悪い場所に建てられたのか。それはこの町のこの場所が教祖様の生まれた地、いわゆるパワースポットだからだそうだ。
 周囲の一般人からすれば、これほどはた迷惑な話はないだろうに。

【2】

 毎週日曜日は礼拝の日だった。

 礼拝が日曜日である理由が教典に書かれているのだが、これがヨハネの福音書そっくりな記述なのである。要するにパクリなのだが、後から聞いたところによると、こういうことはよくあるらしい。
 別の宗教と似た神様や出来事を取り上げると、なぜかそれを信じる人が増える。”あちらの宗教と同じものを扱った上で、こちらはもっと正しく記述できています”というふうに説明するのだ。実在の有名な話を用いれば信憑性が増すとでも思っているのだろうか、詳しいことはわからないが、少なからず効果はあるらしい。
 
 「全ての宗教は繋がっているのよ」

  そう母は言っていたが、よくわからない。

【3】

 お祈りの後に教典の朗読、そして解説が行われる。
 午前は俺や礼子も親と一緒にお祈りをするのだが、午後になると子供たちは託児所みたいな部屋に押し込まれる。この託児所みたいな場所を休憩所と呼んでいた。
 子供は難しい言葉を集中して聞き続けることができないだろうから、別の部屋で休憩させてやる。これはそういう配慮なのだと母が言っていた。崇高な活動に集中できない大人たちが子供を排除する建前なのだろうに。

 その部屋のスピーカーから、教典の朗読は一応聞こえてくる。
 親切なのか不親切なのか。

【4】
 大人たちは皆礼拝堂に行っているため、小さい子の見張り役である中学三年生の信者を除けば、休憩所にいるのは全員が赤ん坊か小学生だった。
 だから真面目に話を聞かなくても怒られることはない。
 俺はいつもそっちのけで漫画を読んだりゲームを触ったりしていた。多分、ほとんどの子供たちがそうだった。
 だからこそ、じっと話を聞いている礼子が不思議で仕方なかったのだ。
 彼女一人だけ、それがさも当然であるかのように、スピーカーにじっと耳を傾けていた。
 その行為を見るたび思い出すのは、テレビで何度か見た終戦の光景。天皇の声に耳を傾け、敗北宣言すら尊いものであるかのように受け止める昔の人々。
 もちろん、大人たちからすればそれが正しい休憩所での過ごし方なのだろう。けれど、俺にとって礼子のその行為は不快だった。

【5】

「なんでさ、お前だけ真面目に話聞いてんの」

 小学校五年生の時だったと思う。
 初めて彼女に話しかけ、そう質問した。
 礼子とは日曜日の度に顔を合わせていたが、その時まで面と向かって会話をしたことはなかった。彼女のことがなんとなくいけ好かなかったからだ。

 礼子がどんな子供だったか、周りの人間の言葉を借りれば簡単にわかる。
「あんな小さいのにいつも静かで偉いわねえ」
「片親だから、お母さんを困らせまいとしているのかしら」
「健気ね」
「学校の作文でも賞を貰ってばかり」
「でも、少し大人しすぎるかもね」
「子供らしくない、と言えばそれまでよ」
 
 俺は彼女の事を、ただのいい子ちゃんの偽善者くらいに思っていた。
 
 彼女のような人間は、他のコミュニティでもよく目にしていた。
 授業で積極的に手を挙げて発表するクラスメイトとか。
 クラブが始まる30分前に来てコーチの前でだけ自主練習をするチームメイトとか。

 ありがたいご高話を熱心に拝聴する彼女も、それらと似たようなものなのだろう、つまり偽善者だ、そう考えると苛立ちが募った。
 その頃の俺は、自分の常識だと思っていた日曜日の祈りがそうではないことに気付き、他人から見れば異端であるこの教会のことを疎ましく思っていた。
 彼女が気に入らなかったのは、そんな時期だったことも関係していたのだろう。

【6】

「あなたこそ、どうして真面目に話を聞かないの?」
「だって、こんなの聞いてもしょうがないだろ」
「……そう」
「考えてもみろよ。父さんや母さんはここに来ると幸せになれるって言ってる。今もそのスピーカーから『信者が増えれば増えるほど世界が救われる』なんて言ってる」
「そうね、だってそれは真実のはずだもの。少なくとも、私たちにとっては」
 礼子はそう言い返す。確かに彼女の言う通り、それは真実の『はず』なのだ。
「でもそれなら、あいつらがやってることは良いことのはずだろ? なのにみんな『学校ではここの話をしちゃダメ』なんて言うんだぜ。おかしいだろ?」
 礼子は何も応えない。
「やっぱりやましいことがあるっていう証拠じゃないの、これ」
 黙っているが、じきに何か反論でも返ってくるのだろう、そう思って待ち構えていた。

【7】

「……君は、すごいんだね」
 だからこそ、彼女の口から突然そんな言葉が出てきた時、呆気に取られた。
「は?」
 俺が茫然としていることなどお構いなしに、彼女は言葉を続ける。
「自分の意思を持ってるから、すごい」
「いや、褒めるようなことじゃないでしょ。今みたいな話を母さんに聞かれたら、きっと悲しむに決まってる。神様を冒涜するような行為だって」
「ううん、そんなことないよ」
 彼女は否定する。
「だって、あなたは自分で考えてそう言っているんでしょ。親の信仰があって、それをずっと小さいころから教えられ続けてた。それでも自分は違う、とはっきり言えてる。その"狭い世界の常識"を疑って破るのは、簡単なことじゃないよ」
「どういうことだよ」
 礼子の変に大人びた言い回しは難しい。
「とても勇気があるってこと」
「わっかんねえ、もう少しわかりやすく説明しろよ」
「ごめんなさい。私、そういうのあまり得意じゃなくて」
 そう言って礼子は肩を落とし俯いた。そんな儚げな姿は他のどこで見たこともなかった。
 彼女の弱い部分を見て、初めて彼女のことをほんの少しだけ身近に感じられた。
 礼子ともう少しだけ話をしたいと思った。

【8】

 数年経って思い返すと、多分あの時の礼子は、俺が「洗脳まがいの信仰の押し付けに打ち勝った」ことを褒めていたのだと思う。
 彼女と比べるとずいぶん子供で、なおかつ察しの悪かった当時の俺には、そんなことほとんど伝わっていなかったのだけれど。

 最初の会話以来、しばしば礼子と話をするようになった。
 とはいっても、盛り上がるようなものではない。
 高話を聞いている彼女に対し、気が向いた時にだけ声をかける。
 そして「なんの話なの、これ」とか、「つまりどういう意味?」とか質問する。
 その度に、彼女がスピーカーから聞こえてくる話をわかりやすく噛み砕いて要約してくれた。
 内容自体にはそれほど興味はなかったが、嫌な時間ではなかった。
 彼女の説明はとても丁寧で、彼女の声はとても優しかったから。

 初めに抱いていた根拠のない嫌悪感がまるで嘘のように、俺と彼女は顔を合わせるたび会話をするようになった。

【9】 

 中学に上がって、彼女と同じ学校になった。
 学校での彼女は教会に居る時と変わらず無口で、他人を寄せ付けない雰囲気があった。
 というより、本当に他人を寄せ付けていなかった。
 四月が終わり五月になって、俺や他のクラスメイトがある程度のグループを形成していく中、彼女だけが孤立していた。
 昼休みや移動教室の時もいつも一人ぼっちで可哀想だな、なんてことをぼんやりと考えていた。
 とは言っても、その頃の礼子は嫌われていたというわけではない。単に雲の上の存在だっただけだ。
 クラスの同級生たちは無口な彼女が大人びていると認識したようで、特に男子は皆、羨望の眼差しを向けていた。
 けれど誰一人として、礼子の恋人はおろか友人にさえならなかった。

【10】


 無口だと皆に言われていたが、そうではないのは知っていた。
 思うに、礼子は単に同級生との会話というものが得意ではなかったのだと思う。
 俺以外に同年代の子供がいない教会で、大人とばかり話していた。難解な熟語が沢山含まれている経典だって、内容を暗記するくらいには読み込んでいた。俺も、話している中で彼女の言っていることが難解だと感じる瞬間がしばしばあった。
 だから、その美貌を皆が遠くから眺めるだけの存在になってしまったのだ。たまに話しかける人間はもちろんいたが、長続きするほどのやつはいない。

 けれども俺はそれでいいと思う。友達は無理して作るようなものではないだろうし、礼子にはそうあってほしかったからだ。一人でいる方が、なんとなく綺麗だ。

【11】

 彼女の美貌----すらりと伸びる手足や大きな目や長いまつ毛や綺麗な髪は生まれ持ったものだったが、それを大切に守り磨いているのは彼女の母親だった。

 宗教の人間は『私たちは救われている』ということを全身で表現しなくてはならない。そうでなければ、他人を勧誘したところで「幸せになれるかもしれない」という期待を抱かせてやることすらできない。
 そのために彼女の母親は彼女に美しくあることを強制した。

 もちろん、美しい女性に魅了された人が信者になる、というケースも多いのだろう。
 礼子が美人局のようなことに使われているというのは、想像しただけで気分が悪くなった。

【12】

 クラスでは(いい意味でも悪い意味でも)浮いていた礼子だったが、時々俺にだけは話しかけることがあった。
 その頃、俺の母親はよく礼子の家に遊びに行っていたらしい。
 母が礼子に『息子と仲良くしてやってくれ』とでも言ったのだろう。そして礼子は深く考えることなく、そうしてくれた。

 それが善行だとでも思ったのだろうか。だとすれば、そんな義務感からよくあんなに話しかけてくれたものだ。お世辞にも会話が上手とは言えない、あの礼子が。

【13】

 俺と礼子が会話し始めた頃、クラス全体が不思議そうにその光景を見ていた。
 他の友人にその理由を訊かれる度、「幼馴染みたいなものだ」と言った。
 礼子は俺のことを「敬樹くん」と呼んでいた。俺の母親の事をよく知っていることもあり、名字で呼ぶことに違和感を持っていたのだろう。そういった部分でも、友人は俺を羨ましがった。

 それと、もう一つ付け加えると。
 普段の礼子は他人に対して少し無愛想だったのだが、俺に対しては比較的愛想の良い態度をとっていた。
 そんな小さな特別は、少しだけ気分が良かった。

【14】

 ある日、礼子の家に呼ばれた。
 母親が聡美さんの家で話しているうちに、一緒に家でご飯を食べよう、という話になったらしい。
 聡美さん、というのは礼子の母親の名前である。礼子は聡美さんと二人で暮らしている。
 礼子とはいえ、同級生の女の子の家に行くのは少し気恥ずかしかったが、部活を終えて腹を空かせていた俺は、仕方なく彼女の家を訪れ、食事を頂くことにした。

「家に来るのは初めてだね」
 食器を並べに来た礼子が、食卓に座って携帯を触っている俺に向かって言う。
「まあ、これまで特に用がなかったからな」
「それもそうか」
「手伝うよ。その食器はどこに並べればいい?」
「敬樹くんは座ってていいよ」
「いいよ、格好がつかない」
「今更格好とか気にするんだ」
 そう言う彼女にデコピンをしてやると、彼女が「やったな、今日は食事抜き」と笑う。
 そんな姿を見て、母親たちはそろって口を開けていた。


【15】

 「礼子ちゃん、少し男の人と話すのに慣れていないみたいなの。だからあなたと仲良くしてるのを見て聡美さんも驚いていたわ」
 後日、母がそんなことを言った。
 
 礼子には父親がいない。礼子が幼い頃、俺と初めて会話をするよりも前に、父親は離婚して礼子のもとを離れたのだそうだ。
 結婚当時は母親の信仰を許容してくれていたらしいが、礼子が小学生に上がるくらいの頃に耐えられなくなったらしい。

 離婚後、そんな礼子の父親への当てつけのように、礼子の母親は宗教に傾倒していった。
 そして同時に、今まで以上に自分の娘を教会に連れて行った。これ以上家族に自分の信じるものを否定されることを避けたかったのだろう。

 俺の家は母親も父親も一緒に暮らしており、そしてどちらも同じものを信仰している。そして兄弟もいる。母親と二人で暮らしている礼子とは大きく違う。
 けれど、何となく彼女の気持ちはわかるような気がした。そして彼女を少し不憫に思った。

 もしかすると、礼子は少しだけ寂しかったのかもしれない。父親も兄弟もいない彼女が俺にどういった役割を求めていたのか、そんなことまではわからないが。

【16】

 中学生になると、部活に入る。
 俺は日曜日も運動をするような活動だったから、段々と教会に行くことは無くなっていた。
 母さんはそのことについて「仕方ないね」と言っていた。
 母自身、自分の信じる神様に対して懐疑的な息子を、これ以上教会に連れて行くのが嫌だったのではないかと思う。
 子供の教育は親の仕事であり、信仰心の少ない子供の存在は、実質的に親の信仰心の問題なのだ。
 そういう空気があるから、いっそ連れて行かない方が他の信者に見限られない、そう母は思っていたのだろう。そんなこと決して口にはしなかったが、ほぼ間違いない。
 だから、部活のない日曜だって自主練習と称して遠慮なく家を出たし、母はそれについても何も言わなかった。

【17】

 そんな俺とは逆に、礼子は毎週必ず教会に通った。
 彼女の所属している手芸部が貴重な休日を潰してまで学校に来るはずはなく、結果として日曜日の彼女は教会に通う以外の予定を持つことがなかった。
 当時の俺は、少しだけ礼子が可哀想だと思った。俺と違って、彼女は自分の意思で教会に通っているのかもしれないというのに。

 けれどやっぱり、礼子の母親が無理やり連れて行ってたんじゃないかと思う。
 とりわけ過激な洗脳を行うことのない新興宗教において、自分が二世であるか三世以降であるかというのは自由に大きく影響してくる。

【18】

 自分が二世の場合、つまり自分の両親が初めて入信した場合、その信仰はえてして篤いものとなる。
 家族に関係なく最初に入信する人間は、もともと何かしらの悩みを抱えており、それをいわゆる"神様の奇跡"によって和らげてもらったり、解消されたりしたものが多い。
 つまり彼らにとって、奇跡とは目に見えて効果のあるものである。自分だけで言えば100%の確率で救われているのだ。

 だから当然子供も入信すべきであるし、救われるのが当然だと考えている。
 むしろそうでなければ、それは自分がもらった恩を仇で返すような行為である。
 救ってくれた神様のすばらしさを息子や娘に伝えないのは、神様への裏切りになる、と考えてしまう。

 一方、親が二世、つまり祖父母から受け継いだ場合はもう少し穏やかなケースが多い。
 苦悩の中で救われた、という明確な理由を持たないことが多いため、盲目的に信仰している可能性がずっと少ないのだ。彼らは基本的に、親が信じているから信じたという曖昧な理由から始まっている。
 もちろんこちらの場合も時には厳格であったりする。
 しかしほとんどが『なぜか自分は人と違う信仰を持っている』という違和感を自分自身も抱えていた過去がある。
 そのため、ある程度信仰の自由に対する分別がある場合が多い。

 つまり、何が言いたいかというと。
 俺は三世で、礼子は二世だった。

【19】

 礼子と俺の会話には、暗黙のルールがあった。
 具体的なところを言葉にするのは難しいが、要するに”教会の話にならないよう、お互いに配慮する”ように会話していた。
 だから俺たちの話題はもっぱらテストや体育祭や部活とか、そういった学校がらみのことだった。

 家に帰ってからの話はしなかった。その中でふいに両親の話題が上がり、その果てには教会の話になってしまう、そういうことを避けていた。
 おかげで俺は、礼子が自分の部屋で何をしているのかすらずっと知らないままだった。

 そして中学も終わりが近づき、自分が3年ほど前まで怪しげな宗教施設に足繁く通っていたことすらぼんやりとした記憶へと変わっていった頃。

 事件が起こった。

【20】

 7月のある日の朝、教室に入ったときのことだ。
 礼子が母親と一緒に怪しい宗教施設に入ったのを見た、という会話が流れ混んできた。

 教会は学校から数駅離れた場所であるため、通学や遊びの時に頻繁に目にする、というようなことはない。
 けれど、こんな田舎町で堂々と建っている怪しい宗教施設の存在を知らない人なんかいない。
 
 あそこはやばい。
 何がやばいのかは知らないがとにかく良くない。
 見たことはないけれど、きっと非道な行為をしているのだろう。
 例えば、洗脳したり。
 多額の寄付金を強制したり。
 (そのどちらも合っているといえば合っているし、間違っているといえば間違っている)

 町の怪しげな新興宗教に対する憶測だらけの共通認識が蔓延っていた。
 そんな中、偶然発見された礼子は良い標的、恰好のおもちゃだった。

 そこそこ進学意識の高い中学校だったから、みんなが受験を前にしてストレスを溜めていたことも関係があるのかもしれない。鬱憤を解消できる話題を心のどこかで探していたのだ。

【21】

 ほどなくして、礼子はいじめられるようになった。

 いじめの発端は俺の部活のチームメイトだった。

 確かあいつは礼子に告白して振られていた。
 他の女子にそのことについて訊かれるたび「罰ゲームだったんだ」としきりに言い訳していた。
 告白自体は罰ゲームであったことは間違いないが、その前から彼はしばしば礼子を話題に挙げていた。
 うなじがどうとか、発育が良いとか、そういった品の無い言葉を口にしては他の奴らを呆れさせていた。

 おそらく彼はもともと礼子に好意を持っていたのだと思う。
 だから、彼が振られた時はざまあみろと思った。
 礼子とろくに会話もしたことのないような人間が、見た目だけで礼子を語るのがなんとなくつまらなかったし。
 
 けれど、それがこんな逆恨みを生むんなら、話はまったく別だ。

 そいつが許せなかった。
 許せないのに、何かを恐れて行動しない自分にも嫌気が指した。

【22】

「黙ってんの気持ち悪いよ、交信でもしてんの?」
 高慢で気の強い女子が礼子の机を蹴り上げた。
 昼食を食べていた彼女の弁当箱が床に叩き落とされる。
 それでも礼子は何も言わなかった。

「家で変な祈りとかしてそう」
「神様の力でさ、何とかしてくれるんじゃねえの」
 そんな言葉で彼女を嘲った。タチの悪いことに、ぎりぎり本人に届くような声量で。
 それでも礼子は何も言わなかった。

【23】


 きっと、中学三年生というのは、そういったことを否定して遊ぶことのできる最後の時期だったのだと思う。
 だからこそ白熱した。
 クラスの何人もが礼子を馬鹿にした。
 馬鹿にしないやつも噂した。
 噂に尾ひれがついて、見ず知らずの別のクラスの人まで彼女を笑った。廊下から眺める彼らの視線は、まるで見世物パンダに対するそれだった。

 誰もそれを咎めることは無かった。
 礼子が何も言わないのだから、教師はそれを追求することもなかった。
 礼子の家が怪しい宗教に入っている、という噂くらいは耳にしていたらしい。
 けれど、だからこそ彼女と接点を持ちたくなかったんだろう。

 彼女が美人だとか、勉強ができるとか、無口だとか、背が高いだとか、そういったことは一つも関係ない。
 ただひとえに彼女は"宗教である"からいじめられている。
 新興宗教の建物に出入りしている、ただそれだけが彼女を糾弾する正当な理由なのだ。

【24】

 もう、学校の人間が彼女に話しかける理由なんて二通りくらいしかない。

 一つは彼女を宗教の人間として馬鹿にすること、
 もう一つは彼女の美しさに魅せられ、信仰に興味のあるふりをすること。

 たった二つだ。
 真からその宗教に興味のある人間なんていない。
 興味があるとしても、そのきっかけが彼女自身の人間性によるものではないことは明白だった。
 なぜなら彼女は他人と口をきかないからだ。その態度がいじめをさらに激化させることに気付いているのかは知らないが。
 
 ともかく、性格から好意を持たれることなんてあるはずがない。

【25】

「家近いよな? お前もなの?」

 背筋がぞっとした。
 声をかけてきた彼は特に礼子を馬鹿にするようなタチの人間ではなく、純粋な興味、あるいは俺への心配からそのようなことを口にしたのだと思う。

 実際に、他の皆は体育のために教室を出ており、二人だけが残った状態だった。けれど、それでも何か自分の後ろめたい部分を差されたような気分になった。

「ごめん、その辺のことはよく知らない。母さんは仲良いから何か知ってるのかもしれないけど」

 あらかじめ言い訳しておくと、その頃の俺はとっくにそんな教会に興味なんてなかったし、願わくばそんな怪しげな組織とはすっぱりと縁を切りたかった。
 やはり自分にとって、あそこはあまり好ましくない場所だった。あの奇妙な教典も、いつもにこにこ笑っている老人たちも、"教祖"と呼ばれていた人の派手で怪しい格好も、すべて気味が悪い。だからこれは本心からの回答だったのだ。

「そっか。だからって、別に何かを否定するわけじゃないんだけど」
「……ああ、わかってる」

 けれどこの時、もう少しだけ礼子の助けになるような言葉を返せば良かったな、という後悔だけ残った。

【26】

 いつか収まるだろう、と思っていた魔女狩りは思ったよりも長く続いた。

 礼子のいじめに、やがて聡美さんが気付いた。
 彼女がいじめられればいじめられるほど、聡美さんは礼子を教会に連れて行った。
 まるで、そこで祈っていれば全てが解決するかのように。
 何度も何度も、時には学校を休んでまで連れて行ったのだという。

 逆なのだ。彼女がそこにいけば行くほど、クラスの人間はそれを揶揄する。
 そんな単純なことにも気付けないのだろうか?

【27】

 礼子の靴箱が汚されて、
 露骨に机の間隔を広げられて、
 休んだ次の日に学校に来ると舌打ちされて、
 返却されるはずのノートがゴミ箱で見つかって、
 そこでやっと、俺は自分がただ傍観しているだけであることに苛立った。

 礼子のことを救ってやりたいと思った。彼女を母親の勝手な信仰によるしがらみから解放してやりたかった。けれど声をかけられなかった。
 礼子に声をかけられなかった理由の一つは、他者の目を恐れたことである。それは確かだ。確かなのだけれど、それ以上に大きな理由もあった。
 彼女を救いたいなんてどの口が言えるのか、と心の中で自分を諫める声がするのだ。何か助け舟を出そうと思うたび、何度も、何度も。

 相手を救ってやろうというエゴは、時としてむしろ相手の邪魔になる。
 救われることを心から望んでいるわけじゃない人からすれば、なおさらそれは余計なお世話だ。
 皮肉にも、それは宗教が教えてくれたことだった。

【28】

 それでも、どうしようもない日があった。

 夏の終わり。
 その日の俺は、引退したばかりでまだ受験勉強に身が入らず、なんとなく億劫だという理由で学校を休んだ。
 両親はそんな愚息を黙認して仕事に行った。

 食べ物が無くなったので、近くのコンビニに出ようとした。
 見つかると叱られるかもしれないが、流石にこの時間に徘徊していることはないだろう。
 万一見つかった時のために、誤魔化す言葉は一応考えておくか。

 そんなことを心配しながら向かった先、コンビニの入り口でばったり礼子と出会った。

【29】

「何してんの?」
「学校休んでる」
「良いのかよ、成績優秀なのに」
「うん、いいよ。先生ももう、私が無断で休んでも何も言ってこないから」
 
 そう口にする礼子は大して悲しくもなさそうで、それが俺にとってはどうしようもなく悲しかった。
 教師に見つかったらどうしよう、などという不安は遠い彼方に消えていった。

「どっか行こうか、俺も気分転換したいし」
「どこに?」
「誰もいないところ」
「そっか」
 肯定も否定もしなかったが、俺が指示すると、彼女は後ろの荷台に腰掛けた。
 授業をさぼって二人乗り。
 けれど、あまり青春という感じはしなかった。

 学校と真逆の方向、ただただ遠くを目指した。何かから逃げるように。

【30】

 町を離れる。
 少し田舎の方へと進んでいく。
 人の声は少なく、虫の声は大きくなっていく。

 少し疲れたな、と思ったところに現れた自販機。
 どうしてこんな田舎にあるのかもわからないそれに、500円玉を入れる。
「何がいい?」
「いや、いいよ、そんな……」
「いいから」
「…………これ」苺ミルクを指差す。
 ボタンを押しながら、そういえば甘党だったっけ、と思い出した。

【31】

「ゆっくり喋るのは久しぶりだね」と礼子が呟く。
 彼女が虐められ始めてから、俺は一度として彼女に話しかけることがなかった。彼女も俺が避けているのを察して、あるいは俺に迷惑がかかると勝手に負い目を感じて、俺に話しかけることはなかった。
「……ごめん、いろいろ」
「いいよ、それより、こんなところまで連れてきて、どうしたの」

 聞きたいことがあったんだ、と礼子に切り出した。
 ここから先の言葉は、どれも言うのが躊躇われることだ。
 けれど、ここで口を開かなければならない。

 礼子はもっと辛い思いをしているだろうとか、礼子を傷つけないようにしたいからだとか、そういう事ではなく、俺は純粋に彼女にそれが訊きたかった。

【32】

「最近、クラスのやつらが礼子に冷たいのはさ……元を正せば、俺達の"あれ"のせいじゃん」

 礼子は答えない。

「俺は正直、礼子が変わるべきだと思ってる。
 虐めることが悪くないとは全く思わないし、礼子に非があるわけでもない礼子があそこに行くのをやめたら、自由になれると思う。残りの中学生活は少しはマシなものになると思う」
「余計なお世話だとは思わなかったの?」と礼子が返す。
「何度も思って、考えた上で訊いてる。礼子は本当に良いのか。このまま、礼子の母さんの言いなりで、生まれた時から押し付けられてきた信仰をそのまま受け止めて」

【33】

 辛い時間だった。俺にとっても、礼子にとっても、全く楽しくない。
 それでも、この時間に何か価値を見出さなければならない。

「良いのかはわからないけれど、仕方ないことだと思ってるよ」
「教会のあの人たちの言ってることは一つも正しくないのに?」
「あそこにいる人たちが何か悪いことをしたの? 何もしてないでしょ」
「確かにそうだけど、けど皆少しおかしいだろ。普通の人と明らかにずれてる」

 彼らの一番の問題、それは彼らが基本的には本当に善人であることなのだ。
 いつだって神様が見ているから、失礼なことはできない。
 そう考えている信者たちは、常に普通の人よりも思いやりのある優しい行動を取る。
 ただ、その歯車が一つだけずれてしまっている、それだけなのだ。

【34】

 出会った人には挨拶をしなさい。
 困っている人は助けてあげなさい。
 相手を不幸にする嘘をつくのはやめなさい。

 正しい唯一の神様を教えてあげなさい。

 そんな"至極当然な善行"のひとつに宗教勧誘が含まれている。彼らの問題は人を騙そうとしていることではなく、本気で人を救おうとしていることだ。だからこそ、尚更タチが悪い。沢山の『一般人にとっての善行』で宗教的善行をオブラートに包んでいるのだ。

【35】

「正しいか正しくないかなんて、敬樹くんにはわからないでしょ。そもそも誰にもわからない」
「わからないけど……わかるじゃんか」
 詭弁だった。だけど、綺麗な言葉よりも優先すべきことがあった。

「すごく失礼なこと言うけど……礼子は否定することを恐れているだけのように見える」
「そう」
「自分の意見を押し殺して、家族を失望させないのが正しい在り方なのか?
 今更『私はあなたと同じ考えじゃありません』って言って、父親に続いて自分まで裏切ってしまうのが嫌なのか?
 おまえの母さんが一人ぼっちになるのがそんなにダメか?
 娘への押し付けで得られた胸糞悪い満足感がそんなに大事か?」

 二人はしばらくの間口を閉ざす。

 茜色の夕暮れと少なくなった蝉の声。
 何かが終わりそうで、大切なものを失ってしまいそうな夏の終わり。

【36】 

 今は葛藤すら薄れている、と礼子は呟いた。
「確かに、最初はそう思っていたかもしれない」
 けどね、と礼子は言葉を続ける。
「正直に言うと、今はそんな疑問すらあまり抱けないの。感情が少しずつ鈍化してきて、気付けば葛藤も疑いもなくなっていた」
 そしてある日、それが簡単に自分にとっての普通になってしまっていることに気付く。特に幼少期であればなおさらである。
「そしてその普通は、なかなか変わることはない。幼い子供時代に固まってしまった考え方が、それ以降の人生の核になる」
 俺は口を閉ざしたままだった。

【37】

「そんな経験が敬樹くんにもきっとあったはずなの。その頃に身体に染みこんでしまったことは、善悪の判断の対象にすらならない」
 礼子は言葉を続ける。
「周りが当然のように万引きをしていた地域で育った子供たち。
 それが罪であると言葉で理解しても、本当の意味ではわからないように」
「客観的な良し悪しがわかっていても、それを主観や理性に持ち込むことができない」
 俺が言葉を返すと、礼子は小さく頷いた。
「そんなふうに『正しくない常識を模倣するハードルが一番低い時期』が誰にでも存在して、それが固定化する。だって、子供の頃の私たちは、目の前で起こっていることが正当であるかそうでないかを確かめる論理的な方法なんて、何一つ持っていないから」

【38】

 あるいは、正解や不正解確かめるのはそもそも論理的な方法などではなく、周囲の反応だけなのかもしれない。
 世の中には守る必要のあるルールと守る必要のないルールがあって、環境が変わればすぐにその線引きも変わる。
 全てにそれが当てはまるのではないだろうか。皆、そんな曖昧な境界の上に生きている。

「だから、私にとっては今も、あそこでの言葉が世界なの。信仰を手放すとか手放さないとか、教会に行くのをやめるとか、そんな段階よりももっと根深い話」
 風の音も虫の声も聞こえていなかった。
 ただ一人置き去りにされた礼子の声だけが、いつまでも聞こえていた。

「そして、だからこそ…そんな世界を疑った敬樹くんが羨ましかった」
 初めて会った時、話したことを思い出す。
 俺が自分の意思を持っているから凄い、とか、そんな話。
 
 そんなの嘘っぱちだ。
 礼子の方が、俺の何十倍も考えて、意思を持っていた。

【39】

「だからごめんね、今ははっきりとした答えを返すことはできない」
 彼女の決意の表明に対し、俺は何も言えなかった。

「でも、ありがとう」という言葉に添えられた微笑みだけを眺めていた。

【40】

 それからもずっと、礼子と一緒にいた。
 適当に歩いて、たまに話して、大体は黙っていて、でも居心地は悪くなくて、そんな時間だった。

 そして辺りが茜色に染まった頃、もう少しだけ家から離れた場所を目指す。途中に通りかかったコンビニの前でアイスを食べた。

「どこに向かってるの?」
「まだ言えない、見せたいものがあるんだ」
「そっか、楽しみ」
 礼子はアイスクリームの袋を開け、「いつもこれ食べてるな」と呟く。店に入る前までは新しいものに挑戦しようと思っていても、いざ商品を前にすると馴染みのあるものを手に取ってしまう、そんなことを以前話していた。

【41】

「いつか、彼らの行動が間違っているということが確かになったときはさ」
「うん」礼子はクッキーサンドを食べながら返事をする。

「その時は、あの教典はゴミ箱に捨てられるんだろうか」

 彼らの信仰は偽りで、こんな宗教なんて詐欺まがいの行為の繰り返しなんだって、信者が皆ちゃんとそう思ってくれるのか。

 罪に問われるとか問われないとか、そういう話だけじゃない。
 もっと全ての世間や理屈から批判されたりした時。
 自分たちが間違っていると、彼らが完全に気付いてしまった時。
 そんな時になったら、彼らはどう思うのだろう。
 自分たちの信じてきたものを自ら否定した時、自己を見失わないままに生きていけるのだろうか。

【42】

「たぶんね、彼らが自分の神様を全否定することは絶対にないんだと思うよ」
 俺の疑問に対し、礼子はきっぱりとそう返した。
「どうして? 自分たちの行動が間違っていると理解したのに?」
「ええ。だってそれは、神様が偽物だという証明にはならないもの」
「どういうこと?」
「要するにね……彼らはこういう解釈をするの。『間違っていたのは神様の言葉じゃなくて、自分たちの受け取り方なんだ』って」
「責任の所在は神様本人ではなく、それを広めた人間、それを聞いた人間にあるってこと」
 頷く。
「神様は常に正しいのだけれど、私たちがその崇高な理念を常に完璧に理解できるとは限らない、そう思っているのよ」
 あくまで神様が一番正しいという姿勢は揺るがない、ということだ。
「だから信仰自体は揺るがない。ただ、『次はもっと正しく神様の言葉を聞く必要がある』と言い始めるだけなの」
「確かに、そういう扱いをすればある程度理に適うね」と俺は返す。
「歴史的にもそう。免罪符を作り金策に走ったローマ教会を否定したからって、キリスト教自体を否定するわけじゃなかったでしょう?」
「進化論が提唱されている今も、最も大きな宗教であり続けている」
「そう、求めているもの自体はなにも変わらないんだよ」
 彼女が空になったアイスの袋を折りたたんで、店前のゴミ箱に入れる。
「結局のところ、彼らは同じ神様に救いを求め続けるの。ただ、代わりに新しい解釈を持って、それが神様の言葉により近いものだと信じる。それが新しい宗派となるだけ」

【43】

 不思議な話なのだが、こんなにも両親の宗教を毛嫌いしている俺でさえ、その信仰を真っ向から否定できない。「俺はやめておく」や「正しいと思えない」までは言えても「間違っている」や「良くない」とはどうしても口にできないのだ。それは根拠のない畏怖の感情なのだろう。『言霊』だとか、『先祖の功徳』だとか、余計なことをガキの頃から教えられてきたせいで、尚更口にできなくなっていた。
 一度植え付けられた価値観というものは、それだけ根深いものなのだ。

【44】
「だけど、何度も神様に裏切られ続けたとしたら、宗教そのものが嫌になってしまう可能性もある気がするけれど」
「それでも、彼らが宗教を手放すことは無いと思うよ」
「どうして」
「それにとって代わるものがどこにもないから」
 一言目でなんとなく意味がわかった。彼女が言いたいのは依存のことだ。
「彼らは怖いのよ。自分のたった一つの拠り所を手放したとき、何も残らないことを恐れてるの」
 自分の足で立っていられない人間が、神様という松葉杖を用いて歩いていただけなのだ。
 礼子の言葉をそう受け止める。
「本当に正しい信仰って言うのはね、そういったものに揺るがないものなの。ちゃんと自分自身の軸や拠り所があって、その上でその軸が揺らがないように神様を信じるのが正解。そうじゃない人は、偽りだと思う」
「神様に頼りきりの人間では駄目だってことか」
「もちろん、神様が道を示してくれる、と彼らは言うし、それは確かに事実なんだけど……それでも、そういうことなんだよ、きっと」

【45】

「愛だって信仰が与えてくれるものじゃない。私たちの中に初めから愛があって、それを認めてくれるのが信仰なの」
「そうだね。俺もそう思う。……でもさ、結局、弱い人間はどのみち救われないってことか?」
 そう俺が質問すると、礼子は少しだけ悲しそうな表情をする。
「さあ、どうだろう。そうだったらあんまりだけれど」
「でも世の中ってさ、大体全部そんなもんだよ。ままならない」
「わかったような口を利くのね」
 礼子が後ろからこつんと腰をたたく。
 今のは青春っぽかったな、なんてことを考えた。

【46】

 そして日が完全に沈んだところで、俺は目的地にたどり着いた。
 何の変哲もない田舎の川辺、しかしこの季節だけ、この場所は特別な意味を持つ。

「……綺麗」
 礼子は揺らめく淡い光を眺めていた。
「ここ好きなんだ。この時期は蛍がいるし、近くにあまり家もないから星がよく見える」
 幼い時によく訪れていたことを思い出す。辛いことや悲しいことがあっても、ここに来ればなんとなく救われたような気がしていた。根本的な解決が何もなくたって、綺麗な星と蛍の光を見ていれば、その瞬間だけは満たされたように感じていた。
 たとえそれが現実から逃げることだとしても、俺は構わないと思う。そうでもしないとやっていけないような人間は、きっといるだろうから。
 この一瞬だけでも、礼子には逃げて欲しかった。

【47】
 
 彼女がコンパクトなケースを開け、ワイヤレスイヤホンを取り出す。そのまま耳に付けるのかと思ったら、少しの逡巡の後に再び鞄にしまった。
「ねえ……敬樹くんのイヤホンって、どんな形してるやつ?」
「え、普通の有線のやつだけど」
「じゃあ、敬樹くんのやつがいい。やっぱりそっちで聴こう」
「どうして?」
 彼女のは俺でもわかるようなメーカーのものだった。一番安いものでも、中学生にとってはかなりの高級品に感じるような値段だ。それと比較すれば、俺のイヤホンは中学生相応の安っぽいもの。無線ではないし、もちろんノイズキャンセリングも点いていない。
 しかし、そんなことは関係ないとでも言うように、彼女は言葉を続けた。
「だって、コードがあるほうが繋がってる感じがするから」
 そう言って礼子がイヤホンの片側を俺から奪いとり、自分の左耳にはめる。
 それから、もう片側をこちらの右耳に差し込んだ。
 難しい事ばかり話すくせに、時々こうやって少女漫画のようなことを言う。
 だから困る。


【48】
 
「綺麗な風景と、優しい音楽。それだけで、生きてるって感じがする」
「へえ、礼子はもっと、本とかの方が好きなのかと思ってた」
「そんなこと思ってたの?」
 頷く。
 俺がまだ教会に行っていた頃を思い出した。あの頃の礼子は、小学生にしてはかなり難解な言葉の多いあの経典を読み耽っていた。
「私、実はそんなに文章は好きじゃないんだ」
「そうなの、休み時間によく読んでる気がするけど」
「学校では音楽も聞けないし、映画も観れないからね。でも家ではずっと映画を見たり、音楽を聴いたりしてる。本はあまり読まないかな」
「どうして文章は好きじゃないの」
 普通に考えれば、単に好みの問題なだけなのかもしれない。
 けれど、礼子には何かしらの理由があるのではないかという予感があった。
「言葉は嘘ばかり。でも情景や旋律は嘘をつかないの。だから好き」
「嘘?」
「だって、言葉って、人間が作ったものだから」
「旋律も人間が作ったものじゃない?」
 作曲をするのは人間だろう、そう思った俺は礼子にそう尋ねた。
「うーん、そうなんだけど、なんて言うのかな。言葉だけ純粋なものではないというか」
「純粋? ますますわかんないけど」
「だって、音っていうのは、元々から自然に存在していたものでしょう? 
 風景だって、人によって手は加えられることはあっても、風景を構成する要素自体は初めからこの世界にあったの」
「つまり、俺たちとは関係のないところで生まれたものが素材ってこと」
「うん、そう、けれど言葉は違う。言葉っていうのは世界に存在せず、何もないところから人間が造ったものだから。はじまりどころから人の手が加えられている」
 彼女の言葉が少しだけ腑に落ちる。言葉で何かを生み出すっていうのは結局、見て聴いて感じた世界を私たちが自分の領域に変換した後のものだ。「ああ、そういう意味では確かに、純粋じゃない。神様が用意したものの方が、漠然としているけれど、でも正しいってことか」
 そこまで思ったところで、”神様の領域”なんてものさしで表現した自分に違和感を覚えた。どの口がそんなことを言っているのか。
「礼子の言ってること、わかった気がする。なんとなくだけど」
「そう、よかった」
 そう言って礼子が微笑む。
 失礼ながらこの時俺は、彼女に友達がいない理由も頷けるなと改めて思った。こんな哲学者もどきみたいな話をして笑う礼子。それはある意味クラスの皆のイメージ通りなのかもしれないが、これでは友達ができるわけがないだろう。あまり喋らないようにしているだけマシなのかもしれない。
 けれど、だからこそ礼子なんだ思う。

【49】

「あのさ……教室では何もできないけどさ。でも、礼子のこと心配してるっていうのは本当だから」

 結局のところ、俺は自分が一番かわいいのだ。だから自分が傷つくことを恐れて、教室での彼女を守れない。
 それはとても哀れなことで、けれど彼女はそんな俺に対して一度も憎しみの感情を見せない。
 裏切り者と罵ることはない。

「いいと思うよ。だって教典に書いてあったじゃない。『自分を愛するように、隣人を愛せよ』って」
 彼女は優しい表情を見せる。申し訳なさそうな表情をしている俺を赦しているであろう俺を赦すように。
「裏を返すとね、自分を大切にできない人間は他人を大切にすることはできない。自分を愛して、初めてスタートラインなんだ。だから、それでいいんだよ」
 そう言って礼子が微笑む。
「……まあ、それもキリスト教のパクリじゃん」
「そういうものですから」

【50】

「礼子はさ、救われたいの?」
 と俺が訊くと、
「救われたくない人間なんていないと思うよ。救われることを諦めた人間がいるだけ」
 という返事があった。


「礼子もそうなのか?」
「そうだね、そう思ってた。……でも、少しだけ気が変わったかもしれない」
 どうして、と訊く前に礼子がこちらを向いた。

 至近距離に綺麗な顔。
 長く伸びた睫毛。
 水晶のような瞳。
 少しだけ上がった口角。

「だって、今の私、既になんだか救われた気分だもの」

 作り物じゃない笑顔。


【51】
 礼子と一緒に話した日の後、俺たちはこれまでよりも少しだけ親交を取り戻す。

 あいも変わらず教室では全く喋らなかったが、それ以外の場所では礼子とよく会うようになった。
 家族ぐるみで一緒に食事をする機会も増えた。(どうしてなのかはわからないが、それが礼子の要望だったらいいのに、なんてことを考えた)
 休みの日は礼子の部屋で一緒に勉強したりした。
 一度外で遊びに行ったこともあった。
 わざわざ離れた町で待ち合わせて、彼女の買い物に付き合った。
 礼子は意外と派手な服が好きらしかった。
 あるいは、親の手前選べなかった格好を楽しんでいたのか。

【52】

 これが純粋な恋だったらどれだけ簡単だっただろうか。
 もちろん、俺の中に礼子を異性として好きな気持ちがあったことは間違いない。
 彼女がクラスで他の男子と喋るたび、それが業務連絡や授業中のディスカッションであっても嫉妬していたし、彼女が家に来てくれるたびに嬉しい気持ちになった。
 けれど、残念なことにそんな透き通った感情だけでは片付けられない。
 奇妙で醜くて、身を滅ぼすような複雑な事情が入り混じっている。

 それでも、俺は彼女を救いたいのだろうか?

【53】

 母と聡美さんは、俺たちが一緒に勉強をしたり出かけたりしているのを見て、それなりに嬉しそうにしていた。

 母が喜ぶ理由はきっと『息子に春が来た、それもとびきり美人でいい子だ』みたいな、シンプルな母親の喜びなのだろう。
 けれど、聡美さんはそれだけでないように感じる。
「きっと、うちのお母さんが喜んでるのはね、敬樹くんが腐っても教会の人間の息子だからよ」
 そう思っていたある日、そんな俺の予感を見透かすように礼子はそう説明してくれた。

 宗教人にとって、パートナー選びはとても繊細な問題である。
 理解がある人間でなければ、結婚生活と信仰を両立させることは難しい。
 加えて、聡美さんは自分の夫に見限られてしまったのだ。
 尚更そのことに敏感になってしまうのも無理はない。
 聡美さんにとっては、(例え俺が信者でないにしろ)娘の信仰に理解のある人間というだけでありがたいのだ。
 教会に礼子と歳の近い男なんていない、ということもあるし。

 そう言った理由で、俺が礼子と付き合い結婚するのは、聡美さんにとって願ったり叶ったりなのである。
 結婚なんて遠い話だろう、と誰もが思うだろうが、聡美さんはきっと本気でそこまで考えている。

 盲目的に熱心な信仰をする人間は、一種のロマンチストだから。

【54】

「だとしたら少し申し訳ないな、俺は全く興味がないし」
 聡美さんにとっては残念なことに、俺は心からあの団体と縁を切りたいと思っている。
 決して彼ら彼女らの言っていることが全て間違っているとは思わないし、カルト集団ではないあの団体はもちろん信教の自由の範疇だ。
 けれど、それでも俺には合わなかったし、決してあの空間に戻りたいとは思わない。
 もし仮に礼子と付き合ったら……やっぱりあそこには通ってほしくない、と言うかもしれない。

 前に彼女が言っていた。
「これが世界なのだ」と。
 自分の信じるものに疑念を抱き始めている彼女。しかし同時に、これが彼女自身から切り離すことのできない世界であることも確かだった。

「というか……そもそも付き合ってないんだけどね」
 そう言って苦笑いを浮かべる礼子。
 そんな彼女に手を伸ばす。
 礼子は拒絶せず、俺の手に自分の指先を絡めた。
 神様も心も実在するのかわからない。
 ぬくもりだけが本物だった。 

【55】
 なんでもない寒い冬の日だった。
 聡美さんが出かけている土曜日、礼子の部屋で勉強をしていると、唐突に彼女が涙を流し始めた。
 彼女が何も言わずとも、学校での出来事が色々と限界であることは見て取れた。

 最近、クラスでの礼子への対応はいつにもまして過激になっていた。
 単純に受験が近いゆえのストレスだろう。
 俺も苛立ったり面倒になったりして学校を休むことが増えた。

 そもそも、学校での礼子は感情が乏しいわけではなく、表現が苦手なだけなのだ。彼女はきっと、毎日毎日苦しんで生きている。俺にとっては"なんでもない寒い冬の日"だとしても、礼子にとっては辛くて仕方のない日だったのだ。
 そんな当たり前のことを気付けなかった自分に少し苛立った。


 彼女のために行動しようと誓った。
 幼いころ憧れた人達の真似事をしてみようと思った。
 泥臭く、愚直に、何度失敗しても最後には不幸な少女を笑わせてあげられるような人間、週刊少年ジャンプで見たあいつらのように。
 性格上、自分があいつらほど熱い人間でも努力できる人間でもないことはわかっている。

 けれど、彼らの真似をしようと思えるのも、中学生までだろう。

【56】
 それから二人で家を出て、自転車を漕いだ。

「前は敬樹くんが連れていってくれたよね」
「今度は礼子の番?」
 彼女は頷く。
「行きたいところがあるの。少し遠いけど、私の秘密基地」
 秘密基地という表現は少し子供染みていて、それが面白かった俺は笑ってしまった。彼女も少し笑っていた。
 前と同じように礼子は荷台に腰を下ろした。以前よりも少しだけこちらに身体を預けていた。それが少し嬉しかった。


【57】
 田舎の中の小道を進み、やがて人気のない森の入り口にたどり着いた。
「ここからは歩きかな」
 そう言った礼子が荷台から降りる。一体どうやってこんな場所を見つけたのか。

 そのまま森の奥の奥まで進んでいく。
 その間、礼子はずっと無言だった。

 こんなところまで来ても何もないだろう。
 そう思った矢先、それは現れた。

 礼子の言う秘密基地は、教会だった。
 正真正銘の教会、礼子や俺の親の信仰とは関係のない、正真正銘のキリスト教の教会である。

 とはいっても、その建物は森の中でその役目をひっそりと終えていた。

 スプレー缶の落書きだらけの床、破片が飛び散ったステンドグラスの窓。傷や汚れだらけだが、その形はしっかりと留めているマリア像。

 何十年も前から誰も祈っていない、祈りのために創られた空間。

【58】
 子供の頃、ぼろぼろになった仏像やキリスト像を見るたび、「信仰されなくなった彼等は何処で何をするのだろう」なんてことを考えていた。
 実際には彫像はただの偶像でしかなく、それを通して祈りを捧げる神様は別の場所にいる。
 そういうことだと何度も教えられてきたのだが、どこか実感が湧かなかった。
 廃墟と化したこの教会で、そんなことを思い出した。

 彼女が手を合わせ、目を瞑る。
 どれだけ敬虔なクリスチャンにも劣らない、美しい姿。
 そこにいるのが礼子の神様でなくとも、彼女は一心に祈りを捧げていた。

【59】


「良いのか? キリスト教の教会でお祈りなんかして」

「ダメなんて決まり無いよ。だって、他の宗教を肯定することはとても大事でしょ。入信する結構な割合の人たちが、既に他の信仰を持っていた人なんだから」
「純粋に"懐の深い宗教です"って言ってるようなものだしな」
「うん、そう。よくわかってるね」
「わかりたくもないけど」

【60】

 魔法瓶に入れた暖かい紅茶を二人で飲んだ。
 寒い中で飲む温かい飲み物はどうして美味しいのだろう、と俺が呟くと、生きている感じがするからだと礼子は答えた。
「苦しくて苦しくて仕方のない中、ふと差し伸べられた手は、幸せな時よりもよっぽどありがたくて尊いもののように感じられるから。きっと、寒い中の温かい飲み物も、同じだよ」

 それから彼女は「生きているのは素晴らしいね」と呟いた。
 本心なのか強がりなのか、あるいは礼子なりの諦めの表現なのかはわからないけれど、彼女が言うならその通りなのだろう。

【61】

 廃墟となったのちに落書きされ破壊されたこの教会の姿は、崇高な何かが悪意によって踏みにじられた象徴のようだ。けれど同時に、それがどこか神々しくも見えた。人や時間が荒らした醜い痕跡があるからこそ、この場所は本当の意味で尊く価値のあるものになったように思える。教会は壊れた後こそが、完成であるようにも感じられた。

 薄汚れたマリア像と、割れたステンドグラスに描かれたキリストの真っ二つな顔に祈る。
 願い事はたった一つだった。

 礼子の神様が、正しい神様でありますように。

【62】

 帰り道の森を、礼子は静かだと言った。実際には鳥や虫の声が聞こえるし、無音とは程遠い。それでも静かだと言うのは、そこに他の誰もいないからだ。彼女を否定する人間の一人もいない。

「でも、あの場所に戻らなきゃいけないんだね」と礼子は呟く。
 どれだけ傷つけられても、他人と違っても、居場所がなくても、彼女は社会的な生き物だ。
 認められない場所で、彼女は生き続けなければならない。

 木々の隙間から差し込む太陽の光がとても綺麗だった。光の総量は開けた場所の方がよっぽど多いけれど、こんなにもか細い陽光を美しいと感じるのは、薄暗いこの森の中だけだ。
 周りが暗いからこそ、僅かな明かりに見惚れて縋っている。
 まるで自分たちみたいだな、と思う。

【63】

「高校に入ったらさ」
「うん」
「学校でも礼子に話しかけるよ」
「本当かなあ」
「通学も一緒にしよう」
「だと嬉しいけど」
「今の中学のやつらがいないとこにしよう、清高とか」
「でもあそこ、少し遠くない?」
「その分一緒にいられるじゃん」
「憎いことを言うね」

「だから、だからさ……もう泣かなくていいよ、礼子」

【64】

 結局、俺は自分が嫌悪したものと同じことをしている。ふとそれを実感した。

「友達ができるように手伝うし、悪口を言われたら否定する。もし誰とも仲良くなれなくても、毎日、毎時間、話しかけるよ。だから大丈夫」
「……うん、そうだね。敬樹くんと一緒に居られれば、幸せになれる気がする、私」

 根拠のない救いの言葉で依存させて。
 意思決定を他に委ねさせて。

 礼子を救うと言いながら、やっていることはなんら変わらない。
 これは洗脳だろうか?
 数年前の自分が見たら、そう言っているだろう。

「ありがとう敬樹くん。
 そんなに言われて、幸せだ、私」


 けれど、これが愛なんだと信じたかった。



【end】
 念のために言っておくと、俺と礼子の物語は、ここがピークだった。
 あの頃は、おぼつかない足取りで、けれど確かに歩くことができていた。

 現実は物語と違う。
 救いを求めたその瞬間がどれだけ尊く美しかろうと、それが永遠に続くことはない。
 人生をハッピーエンドで止めることはできない。
 尊い理想も、幸福を目指して走り続ける生も、いつか満たされぬまま壊れてしまう。
 だからこそ、ここに書き記すことだけは、最も幸せだった瞬間で止めておく。

 けれど、もしも誰かが望むならば。
 その時はもう少しだけ、礼子の話をしようと思う。

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