見出し画像

「アリスとテレスのまぼろし工場」所感

 悪く言えば乱暴で荒削りだが、それでも伝えたかったであろう岡田麿里の強烈なメッセージがあった。エンタメとして昇華させた結果、セカイ系に類似した作品になってはいたが、きっとこれはたぶんセカイ系ではなかった。

 (余談だが、基本的に僕はセカイ系の定義を
【「外」「大人」「世界」の壮大さ、絶対さに対する「内」「子供」「人間」あるいは「わたし」の無力さを対比した閉塞的な物語全般】
といったような形で捉えている。かなりアバウトだが、それでいいと思っている。あまり言葉に踊らされるのも良くないので。)

 新海誠の「天気の子」の時にも感じたが、90年代後半やゼロ年代前半を彷彿とさせるこの手の現代作品の多くが、強い意志を持って閉塞感や無力感に対する抵抗を行っている。
 天気の子では「雨」という自然現象に対する私たちの醜い抵抗・および共存の選択を肯定し、かつてセカイ系で語られたジレンマを打ち破った。折衷案のようにして。
 アリスとテレスでは、停滞した虚構の狭い世界からの『痛みを伴った』脱却を描き、未来への前進を私たちに強いた。

 こんな話をしているが、「アリスとテレス」がわざわざゼロ年代やセカイ系を意識した作品であると考えているわけではない。
 
 日本特有の閉鎖性や停滞感はバブルが弾けて以降、私たちの生きる現実世界においては現代までほぼ絶え間なく続いている。
 その中で、ある一時期のみにおいて、この日本的な停滞をエンタメにするような動きが起きた。それがセカイ系周りの作品群である。しかし、10年ほど擦ったものの、結果的にこれは飽きられてしまった。現実から目を逸らした上で、孤独や疎外を抱えていればエンタメとして成り立ってしまう世の中が長く続くはずがなかったからである。
 なので、先に現実の閉塞感があり、それを射影したセカイ系作品が一時的に存在していた過ぎない。そういう構造なので、副産物のみを取り上げて語ることに特別な価値はないだろう。

 アリスとテレスにおいて深く掘り下げるべきは「セカイ系」がどうとか、そういうエンタメに限った話ではなく、むしろ現実世界においてあの閉塞感が今も続いている(加えて、感染症の流行によりあの頃と似た感情を呼び戻されている)ことに対する警鐘である。
 これまでのフィクションの文脈に対する過剰な意識はなく、おそらく概ね真剣に、今もなお続く現実の後ろ向き加減に対して描いた作品が本作であった、と考えるのが妥当だろう。

 ただし、私たちは基本的に停滞を甘受する。過去に依存する。それがセカイ系が生まれてきた理由であり、アリスとテレスが描いた世界観そのものである。
 その上で、意識的にも無意識的にも、過去にサブカルチャーが描いた後ろ向きな結末をわざわざ再翻訳する必要はないと考えたのならば----結果、今作のような(無理矢理にでも)前を向かせるようになる物語が完成する。それはなんだか良いことであるようにも思える。

 四季大雅「バスタブで暮らす」でも感じたことではあるが、感染症の流行や精神病理解の促進により、日本だけでなく世界中で閉ざされた物語へのアンテナが強くなっていると感じる。
 現実で味わった苦しみが創作に昇華されるまでにある程度のタイムラグが生じるとすれば、今後この手のナイーブな作品はしばらく続くのではないかと思う。


(2023年9月16日 初稿)




この記事が参加している募集

#読書感想文

188,766件

#映画感想文

66,776件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?