限りあるパイを奪い合うわけじゃない
お恥ずかしい話だが、私はこれまでこの世の中における「歌が上手い人」「芝居が上手い人」と言うのは、その枠数が限られているもんだと思っていた。
「演者」とされる人たちは、絶対的なその価値基準に晒され,限られた栄光の座を奪い合っているのだと思い込んでいた。
あるいは、別の表現をすると、
「ハイ、ここから先はうまい人、で、ここから先は下手な人です!」という具合に、ウマヘタ、良し悪しに明確な境界線が引かれているものだと思っていた。
その境界線は、いろいろだ。
例えば、演技のプロとして食べていけるか?かもしれないし、これまで主役やメインキャストに選ばれた回数かもしれない。音楽大学を出ているとか、そういうことかもしれない。
もちろん、何かのオーディションにおいて、その枠というものは限られている。誰かが受かれば誰かが落ちる。
その比較基準は技術であり、役にはまっているか、演出の意図通りできているか,というところも関係してくるのだろう。
でも、最近考えが変わった。
「うまい人はなんぼいたっていい」
「"良い"かどうかはグラデーション」
「鑑賞者が変われば評価も変わる。」
「絶対的ジャッジは存在しない。」
ということに気づくことができ、かなり心が軽くなったのを感じる。
それに気づいてからは、少しだけ余裕に構えていられるようになった。
たとえば、日本国内のミュージカル好きを名乗る人たちが、ライブやオープンマイクなどの場で歌を披露している動画を見ても、あー上手いなーと素直に思うだけで、自分と比較して落ち込まなくなった。
少し前までのように、自分が舞台を続けていることは"下手の横好き"なのではないか、と思い悩むことも減った。
自分の歩みを眺めて、どのぐらい成長したか、あるいは後退したか、を測ることは重要だけれど、誰かと比べてしまっても、あまり良いことがないかもしれない。わざわざnoteに書くまでもない、当たり前のことだ。
比べるのは、演出家や鑑賞者、評価する側、
そしてその基準は、人が変われば必ず変わる。
このことに気づかせてくれたのは、私のボイトレの先生だった。
ある日のレッスンで、私は開始早々、1本のYouTube動画を先生に見せた。それは私が所属していた団体の大先輩、アマチュアながら圧倒的な歌唱力で、いろいろなライブや公演に出演している人の、「歌ってみた」動画だった。
私がそれを見せた意図は、いつかこういう風に歌えるようになりたいが、どうしたらいいか?の教えを乞うためだった。
しかし、先生が動画を視聴し始めると、次々に
「はい,今音外した」「キャラが弱い」「真面目すぎる」「ここの滑舌が弱い!」
、、と、鬼のダメ出しをし始めたのである。
私は面食らった。
と、同時に,明らかに自分より2段も3段も"格上"の人の歌唱動画をこれほどけなすのだから、自分は一体どれだけダメなんだろうと怖くなった。
先生はもしかしたら、私が動画の中の人と比較して落ち込まないように、わざとその動画に対して厳しいことを言ったのかもしれない。
プロの目線から見たらこの人だって穴だらけなんだぞ!と言うことを示してくれたのかもしれない。
でも、レッスンの帰り道、先生がたまに褒めてくれることがあるのを思い出した。
もちろんやる気を鼓舞するためかもしれないけれど、もしかしたら、ほんの1部でも私には良いところもあるのかもしれない。
完璧に見えた動画の人が先生から見て穴だらけだったように、だめだめに見える私にも、先生から見たら伸びしろがあるのかもしれない、と思った。
何にせよ、やり続けることだ。
そして怖がらずに、他の人のパフォーマンスも見るべきだ。
どんなにうまい人がいても、その人が絶対的価値を発揮しているわけではないし、
ましてやその人の実力が私のやりたいことや叶えたい夢をを脅かしているわけではない。(オーディションでぶち当たらない限りはねw)
うまい人を見ると、ただひたすらに落ち込んでしまって学びにならない、、というのは非常にもったいない、そう思った。
何が言いたいかと言うと、大人の習い事はとてもいいですよ。
会社員だけしてたら、こういう心の動きは、なかなか起きづらいですから笑
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