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シネマ06 素直な心

 意味もなく進むのは、久しぶりだ。
 鋭さを感じる風。透き通る空。
 パラパラと、脳内の古語辞典が捲られる。
 「ゆ」

 左に行こうか。右に行こうか。いや、真っ直ぐか。
 はらり。今度は、国語辞典の出番。
 「…揺蕩たゆたう」

 夜を歩くと、言葉たちの囁きが聴こえてくる。
 言葉たちは、風や草木など色んなものの影に隠れている。「見つけてよ」と手を振るもの。「ここだよ」と、か細い声を震わせるもの。五感を研ぎ澄ませて歩けば、ほらまた…。
 「見つけた。今度は、しもこえ

 玉響たまゆら深更しんこうよどみ。天満月あまみつつき…。
 歩けば歩くほどに、言葉と出会う。言葉たちと出会う度に心の臓は高鳴り、もっともっと触れ合いたいと心が言う。だから、簡単に歩みを止めることができない。今まで頑張っていた分だけ。今宵は…ただ言葉たちとたわむれていたい。

 おぼろを見つけたそのとき。背後から馴染みのある声が聴こえた。
 「おぼろ、見つけた」

 「すみれちゃん?」
 「あっ、百合ゆりちゃん!」
 びっくりした顔を見せるのは、同じ大学のすみれちゃん。
 「…百合ゆりちゃん!この後時間ある?ここで会えたのも何かの縁だし…」
 さっきまでまん丸の目だったのに、今のすみれちゃんはいたずらを思いついた小学生のようなワルイ顔をしている。万華鏡のように、すみれちゃんは色々な表情を私に見せる。


 深更しんこう
 行き先もわからぬまま。すみれちゃんに連れられて夜を歩く。

 「ここ」
 少しして、すみれちゃんはおぼろを見つけたときと同じようにアルトを響かせた。
 目の前には、映画館。看板の文字は“シネマ”だけで、肝心の名前は姿を消している。随分と、歴史を感じる映画館だ。
 「行こう?」
 すみれちゃんは、重い扉の先へ。私を導く。


 「百合ゆりちゃん、少し待っててもらっても良いかな。チケット、買ってくるね」
 もちろん、と返すとすみれちゃんは笑顔を見せた。レイトショーでも観るのだろうか。


 戻ってきたすみれちゃんは、まるで修学旅行の夜のように、密やかに言った。
 「〈シアター06〉」




 〈シアター06〉の扉を開けると、スクリーンも、座席もない。代わりに、カウンター席と、たくさんのお酒が並ぶ棚が目に止まる。ここは…。


 薄暗い店内。天井から吊るされた灯りが、テーブルに月を作る。
 「マスター、お願いします」
 すみれちゃんは、先程買ったチケットを初老の紳士─マスター─に手渡した。
 マスターは、私たちに微笑んで言った。
 「少々お待ちください」



 「どうぞ、楽しいひとときを」
 テーブルの月のちょうど真ん中。置かれたのは、カクテル。
 子どもだったあの夜と違って。音を立てても、誰にも怒られないのに。私たちは細心の注意を払って、そっとグラスを触れ合わせる。
 「乾杯…」
 「…乾杯」
 そして、ひとくち。ジンとライムの酸味が口内に広がる。爽快感に包まれ、晴れやかな気持ちが心を占めていく。美味しい…そう言おうと、顔を上げると…。




 「……え?」




 さっきまでバーにいたのに。目の前には、大きなスクリーン。そこに映し出されるのは、“黒板”とそこに書かれた言葉。

 “素直な心”

 「ねえ、百合ゆりちゃん。私ね、百合ゆりちゃんがたくさん頑張ってたこと、知ってる。実習中、夜遅くまで授業作りをしていたこと。採用試験に向けて、懸命に努力を重ねていたこと。誰かを想いながら、自分の“素直な心”…あっ、これね“ジン・リッキー”のカクテル言葉なんだ。正直に、真っ直ぐに自分の道を歩いている百合ゆりちゃんのこと、とっても素敵な“大人”だなって思ってる。一緒にいるとね、私も頑張ろって思えたんだ。だからこそ、私も私の“素直な心”を大切にして歩けた。夢に一歩近づけたのは、百合ゆりちゃんのおかげでもあるの。本当に、本当にありがとう。………あー!これから百合ゆりちゃんと出会う子どもたちがすっごくすっごく羨ましい!!」
 すみれちゃんはふふっと笑って。それから、真っ直ぐに私を見つめて言った。
 「百合ゆりちゃん、私と。出会ってくれてありがとう」



 気がつくと、バーに戻っていた。
 「ねえ、もう一度乾杯しよう?」
 「…ん?」
 戸惑うすみれちゃんに、グラスを向ける。
 「子どもたちにとって、素敵な“大人”であれるよう。これからも、私たちらしく“素直な心”を大切に歩いていこう!」
 ふたりで、子どもみたいに笑い合った。屈託くったくの無い笑顔。は、正に今の私たちのこと。すみれちゃんがとびきりの笑顔で言う。
 「これから、たくさんの子どもたちの笑顔と出会えますように!」


 言葉と触れ合うように、これからたくさんの子どもたちの心と触れ合うことのできる“大人”でいたい。そして、子どもたちに言葉との触れ合いの楽しさを耳打ちできる“大人”でいれるように。二人の想いを込めて、乾杯をしよう。今度は、夜に私たちの声を響かせて!

 私たちと、そしてこれから出会う子どもたちに…。
 「「乾杯!!!」」

 一期一会いちごいちえ





Special Thanks 
 あたたかい笑顔の私のお友だち
 場所は違えど、子どもたちにとって素敵な“大人”であれるよう、共に歩いていけたらいいな。

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