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「『自分が何をやっているか』を言語化できている時点で面白くなくなっている」説

「役割ってなんで存在してるんだっけ?」
「肩書って何のためにつけるんだっけ?」

最近、こんなことばかり考えています。
意味わかりませんよね。
僕もわかりません。

確かに、役職や肩書があった方が、相手に対しては親切です。
「〇〇(会社)で△△(仕事や役職)をしています」と説明してあげた方が理解は得られやすい。

でもそれって、他者目線でしかなくて、自分目線で考えたときに必ず必要なものなのか?
また、他者目線でも本当に必要なのか?

さらに言うと、言語化する必要はあるのか?
言語化したorしてもらった自分はハッピーなのか?

僕なりに疑って、僕なりに考えてみた結果、現時点では「必ずしも言語化する必要はない」という結論に至っているのですが、その背景や過程について書いてみようと思います。

「自分がやっていることを言語化する」とはどういうことなのか?

初めに、「自分がやっていることを言語化する」とはどういうことなのか?について説明します。

読んで字のごとく、「自分がやっていることを言語化できている」なのですが、平たく言うと、「自分が今やっていることを自分で理解できていて、相手に齟齬のないように伝えることができる」状態です。

例えばこんな感じかな。

「〇〇株式会社で、法人向けの営業を担当しています」

確かにわかりやすい。
こういう自己紹介、今まで何回やってきたんだろう。

「自分がやっていることを言語化する」ことが何を意味するのか?

少しずつ、今回のnoteの核に迫っていきます。

「自分がやっていることを言語化する」ことが何を意味するのか?なのですが、僕の仮説はこれです。

"自分と相手の視野を限定すること"

例えば、「採用担当のすみだです」と名乗った時点で、僕の視野は”採用”モードになってしまうんですね。
採用の頭で情報を取りにいったり、人付き合いも採用を軸に決まっていってしまう。

また、相手目線に立っても同じことが言えます。
「すみださんは採用の人だから、採用の話をしなきゃ」
「採用をやっているということは、こういう人なんだろう」
などなど。

これって、すごくもったいないように感じませんか?
もう少し細かく説明すると、言語化した瞬間に自分の視野が狭くなっているんです。

むしろ、「色々やってまーす」と自己紹介しちゃって、「この人謎だな」と思われた方が、色眼鏡なしで見てくれる可能性だってあります。
その実例をあげると、最近出会う人に仕事を聞かないようにしているのですが、その方が仲良くなるのが断然早いです。
色眼鏡なしに人対人の付き合いができているから、かもしれません。

「誰かに理解される」とはどういうことなのか?

とはいえ、「〇〇株式会社で、法人向けの営業を担当しています」とわかりやすく自己紹介をするのは、人付き合いの上ですごく大事です。
相手の立場を理解した上で話を選定することは、ビジネス内外で重要なスキルになります。

一方で、デメリットもあると考えています。
正確に言うと、ある前提条件の上ではデメリットになる、という感じです。

その前提条件とは、「面白さ(ワクワク)を最優先事項とする」というもの。
そして、デメリットの正体は、「誰かに理解される時点で面白くなくなっている」です。
理由はシンプルで、誰かに理解される=万人に理解される可能性が高い=既出のものがほとんど、という感じ。

確かに、スーパーマリオみたいに大衆に受け入れられる面白いものもありますが、どこにもない、誰もやったことのないものに多くの人はワクワクしますよね。
となると、最初は理解される人数が少ない方がいいんですよ。
だって、理解される人数が少ないことは、すなわち尖った考えである確率が上がるから。

「自分が理解している」とはどういうことなのか?

次は、視点を変えて”自分”です。

前章と内容はあまり変わらないので、詳しい説明は省きますが、「自分が理解している」ことはすなわち「ゴールが見えてしまっている」ことになります。

ゴールが見えてしまうということは、自分の未来が想像できることになり、そこに向かうレールが敷かれることにもなりますよね。
確かに、そこに向いたいのであればそのレール上を全力で駆け抜けるべきですが、「本当に敷きたいレールだったのか?」「死ぬ間際でも走りたいレールなのか?」はまた別問題。

また、面白さとは、大抵自分が想像してないところにあるものです。
ということは、理解できている時点で、言語化している時点で、自分の範疇を超えていないんですね。

ということは、自分が何をやっているのか自分でもわからない方が、未知の世界に挑んでいる感があってワクワクするわけです。

UVERworldのIMPACTという曲にも「道に迷えば始まる冒険 行こう起きても覚めぬ夢の中へ」という歌詞があるように、わけわかんなくなってからが本番です。

まとめ

というわけで、「『自分が何をやっているか』を言語化できている時点で面白くなくなっている」説の、僕なりの回答はこれです。

言語化できている時点で、自分にも相手にも”理解”が生じ、想定内の結果にしかならない

やりたいことは「やりたいと思ったからやる」で十分だし、面白いことは「面白いと思ったから面白い」で十分。
自分や相手に”理解”を求めるよりも、わけのわからない状況に突っ込んでいく方が、結果的には”面白い”景色を見られるはずです。

そんな、「何やってるか自分でもわからない」人が、僕は大好きです。

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