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知らない通り、ポプラの実、アマチュア根性

花瓶の水をかえて、いっぽんいっぽん茎を切り戻す。
芍薬はもうすっかりこのブーケの主役におさまっている。鼻をうずめてしばらく香りをかぐ。
濃いあかむらさき色のこぶりな菊は、よく見ると花びらごと、奥のほうで何かがきらきらしている。めしべとかおしべとかだろうか。小さな棘ほどの何かが光っているのだけれど、どれだけ目を凝らしてもその正体がつかめない。

一番近くの郵便局は外出制限がとけた今もまだ開いておらず、隣の区の郵便局まで。
並ぶことを予想して本を持ってゆく。
森有正の『バビロンの流れのほとりにて』。
パリのうら寂しい生活の描写から始まる。大通りを暗い色のアパルトマンが林立し、けれど空が不思議と広く、印象的にたちあがってくる雰囲気など、パリにいなかったらイメージができなかったかもしれない描写がいくつかある。出てくるのは知らない通りばかりだ。生活圏がかぶっていない。
一時間は並ぶことを覚悟していたが、今日は列の進みが早かった。
普段は機械の秤で料金を支払い自分でシールを貼るのだが、今日は局員さんが対応してくれた。
郵便物の追跡ナンバーをそれぞれ取り違えないか、はらはらしながら見守る。

干しあんずや、カレー粉、ナッツ類などを買う北アフリカ系のスパイス屋さんが開いていたので立ち寄る。
お店の外に並んでいると警官が3人広場の真ん中に自転車を停め、並びの果物屋さんに入っていった。
広場にはテントを張って寝泊まりし、道行く人にお金や食べ物をもらっている人が何人かいる。
買い物を済ますと警官たちがその人たちに何やら問い詰めている様子だったので、せめてもそれをじっと見つめてやる。何が理由で話をしているのかは知らないが、市民はあなたたちが何をしようとしているのかちゃんと見ているよ、という態度。
しかし道に落ちている何かの実を吟味して拾い、大きなリュックを背負ってキックボードをかっ飛ばす私が大人の市民に見えたかどうか。

夕飯は昨日使わずにいた肉味噌をピーマンと炒めたものと、ズッキーニを厚く切り素焼きして出汁をからめたもの、ほうれん草と厚揚げのお味噌汁、ご飯には雑穀を入れる。漬物がなかったからピクルス。
どっさり蒸したさつまいもが早くも傷みそうな雰囲気になっていたのでバターと砂糖と小麦粉と牛乳を加えて簡単なケーキにする。
今日は外がにぎやかだ。
そうだよね、金曜日だもの。
金曜日はにぎやかなものなんだっていうことを、この2ヶ月ですっかり忘れていた。

映画と音楽と演劇に携わる著名人が文化芸術復興基金を求める放送をしていたので、夕飯をつくりながら聞いてみた。
なぜ芸術をこの社会のなかで保ち続けていかなければならないか、という問いに、誰も説得力のある返答ができていない。
「辛い時に笑いや感動をくれるから」に毛の生えた程度の言葉ばかりで、芸術のことを日々考え、こんな運動を起こそうという名乗り出たのにそんな認識なのかとがっくりくる。またはその程度の言葉しか伝わらないと考えて発しているのであれば、それは伝える相手の想像力を、ひとが体全体で何かを感じて生きてその時間を積み上げたその体で芸術に触れるのだというそのことを、全然信じていないことになる。
そういう態度だから芸術が後回しにしていいと思われてしまう、後回しにしてもいいほどに落ちぶれたと見られてしまうんじゃないのか。

とはいえこの話題についてはつい最近私も友人に尋ねられたのだが、自分の考えを上手く説明できなかった。
なぜいつも入り口で、ここで揺らいだらいけないと分かっている場所で口ごもってしまうのか。
この問題については長年ハラスメントに遭っていたようなものではないか、という気がすることがある。
どういうことか説明したいと思ったが、自分の中に卑屈な気持ちがある以上ダンス界や批評界への悪口になりそうなのでやめておく。
ともあれ、この流れで文化芸術と社会の繋がりが見直され予算が当てられる仕組みが整うのは喜ばしいことなので(というかぜひともそうしてほしい。はやくはやく。)この動きを追いかけようと思う。

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