僕は好きだけど、貴方は僕が好きではない。

自分で「好き」だとか「嫌い」だとか、感覚的に感じているものを言葉に表現するのは簡単である。ただ、そうした突発的に動いていく感情を、自分でコントロールしようとするとなると、難しいものがあるように思う。

何を見て好きだとか、何を見て嫌いになるとか、自分でも何を指標にして物事の判別をしているのかは分からない。不意に好きだと感じてしまう瞬間があり。そうした瞬間には、それが手に届く範囲のものであるか、そうでないかの距離感の把握をして。次に芽生えて来る感情の変化には違いが出てくる。

「僕は彼女が好きだけど、彼女は僕が好きではない」みたいな。そうした現実に突き当たった時に。手に入らない状況を把握した僕は、焦るような気持ちが次に芽生えてきていた。それを知ってから、果たして彼女の気持ちを変えられるのかと考えてみては、それには無理があるような気がしてくる上に。かといって、自分の持ってしまった、この感情には抑制が効くのかと考えても難しいものがある。

嫌われているわけではなかったけど、好かれていなかったというだけの事実に、非常に焦ってた僕は思うが。単純に、自分の熱量と、彼女との熱量の差異に気がついてしまったから、報われそうにない結末に陥りそうで、焦るような感情が芽生えたように思えた。なんだか人間関係というものは、ここの差異が少なければ少ないほどに、安堵できてしまう節があるのだろうと思える。

この差異について、気がついたのなら。その差を埋める為に、次のアクションにでも移せれば良いけど。現実問題は、そのように単純に自分の思い通りに物事が進むものでもなく。頭のどこかでは、そのリスクを想定して考えてしまうように働く。

例えば自分の気持ちを彼女に伝えたとして、①自分の気持ちに応えてくれるパターン、と②拒絶されるパターンとの2つのパターンが連想されるが。マイナス気味な感性からは、負の結果についての注力でもして妄想を膨らませてしまうのが妥当だった。そうして出る結論からは、今のこの距離感から、更に離れてしまうのではないかという不安感であり。その不安感から、その後にはなんとも無意味なアクションを続けようと努力をする。

妙に怖気付いた気持ちから、発展性なんか何にもないままに。時間なんかはあっという間にも過ぎさせていく。結局のところ、時間が経って仕舞えば、自分がそうして好きになってしまった感情の変化のように。それと同じようにも、当然の如く他人の感情なんかにも変化が発生するのは当たり前であり。その変化について、良い変化であるか、悪い変化であるかも自分ではどうにも出来ない、運任せの働きとなってしまう。

結局のところ、大抵の場合は運の悪い方向にへと働いてしまうものだ。

自分は何も変わらないままでいるのに、そのおかげで何も変化を生み出せはしない。おそらく始めからマイナスだった距離に怖気付いて、「そのうちきっと...」みたいな他力な期待から、運任せにしていたツケが回って来るのは当然のことで。きっとこのように失恋した場合、僕は大きく開いた彼女との感情の距離感だけ、絶望感にへと変わってしまうのが当然だろう。そうやって埋めようにもなくなった、彼女との気持ちのズレに対して、僕は何かしらの後悔をする気持ちでいっぱいになるけど。

そうなってから、人を好きになれたことで、幸せに思える節なんかが何処にもなくなるように思えて。結局、僕何のために彼女を好きになってたのかなんて、それが単純に自分が幸せになりたいが為なだけだったのだと思えて。

それで一体、自分はどうなりたかったのか。そういうことが、始めて好きになった瞬間から分かっていたのだが。これは単純に、自分からではなく、彼女からの「好き」だとか発する好意の甘ったるさよって、自分の気持ちが満たされて、満足でもさせられたたかったのだろうっていう結論だった。

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