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「寂しい」から、貴方に会いたくなる。

「誰でも、寂しくなるんだろうね。」

そんな言葉には共感をしてしまうくらい、私も普段から寂しく思う瞬間が当然にある。誰にだって、寂しさを感じる要素くらい持ち合わせているはずだろう。

寂しさなんて感じてしまう事がなければ。私は、わざわざ誰かと関わるようにしてこなかったはずだ。埋め合わせを欲がってくるかのような、こんな感情に突き動かされて、今日も誰かに会いたく思ってしまう。そうやって常々、人の心の中で芽生える"寂しい"などという感情は、人との繋がりを持たせようと強く促してくるものなのだろうと思う。

こうした寂しさの感情を、自ら簡単に切り取れるのだとしたら。こんな気持ちが悪い感情を、スグにでも切り取ってしまいたい。そうして、もっと自分を消費しないような生活が送れるように、堅実にでも生きていくようにしていたい。有意義な生活を送るためには、寂しさなどの感情なんかは特に必要のないことのように思うから。

振り返れば、しがらみのようについてまわってくる、この感情には振り回されてばかりいたように思えていた。人と関わるということが、良いことばかりではないことくらい分かっている。そういったことは、人と関わるうちに学ばされるものだ。

時には他者から不快な思いをさせられる事もあるし、ストレスの溜まる場面も多々あるし。寂しさを埋めるためにわざわざ関わった人から受けるストレスが、私にとっては不愉快な要素の一部として募っていた。それと不思議なもので、他人が不機嫌になっている態度なんかにも非常に苦手なようにも思えてくる。自分の機嫌が悪くなることが、気持ちのいいことではないのは当然だが。自分の立ち振る舞い一つで、変わってしまう他人の感情についても。それがかえって自分が気を遣ってしまう要素になりえるように思うから。そうした人の持つ必然的な感情の浮き沈みの全般に対して、気を使ってしまうことの疲労さを感じさせられている。

誰かと関わりたいと思わなければ、誰とも関わろうとしなくていいはずだ。誰かと関わらなければ、気にしなくていいことも増える。それでも自業自得なほどに、寂しさが湧いて人と関わるようにしていたく思うから、他人に気を使いながら疲弊していく始末なんだ。寂しさなんて、それが最終的に自分に返ってくる悪い元凶にもなりえるようにも捉えられる。

「他人なんかを気にしなくて良いじゃないか。」そうやって、外野に立っていただけなら簡単に言えそうな言葉は。側から見ているだけでなら、他人の顔色を気にしながら生きていくことが、滑稽なことのように思えるからだろうけど。ただ少なからず、当事者になった場合には、そのような言葉だけではどうにもならない、気にしてしまう感情があるのは当然で。全てを気にしないような無神経な人になりかわる事はできない。それと気遣える場面において、敢えて使わない選択を選ぶというのも、それはそれで、なんだか後腐れが悪く思う部分もあるから。無理矢理にでも、自分本位なだけで生き続けようとするには、無理があるように感じてしまう。

結局のところ、寂しさがあるから誰かと関わりたくなるが。誰かと関わる分に、誰かの感情に寄り添い上手く伺いながらも、自分の中にある寂しさを埋められる程度に、適度なバランスで人との付き合いは必要となるのだろう。そうして自分と、他人との感情を、上手く重ね合わせて気遣い続けて生きていくことが自分の最善なように感じている。

持ってしまっている感情に蓋をして、極端な思考だけでは納得できそうな解決なんてないから。巧妙な、そんな寂しさが人との関わりを持たせようとして、必ずしも人と関わることが常に最善の選択ではないと、どこか思わされている。どちらともの、バランスを保たせながら生きていくべきなように思うから。この自分の行き当たりばったりとする感性には、嫌気が差すこともある。

寂しいから誰かと関わるようにしたはずなのに、濃くなっていく人間関係に、返って不快になるのなら本末転倒なように。適度なバランスをとって人間関係を築いている内が、自分にとって、居心地のいい状態のように思えていた。

だから、今日は貴方に「呆れ」の感情を持って会えた方が気が楽になるように思えていた。この寂しさの感情が、自分にとって不都合なもののように思うから。気を楽にして貴方に会いたかった。

「誰でも、寂しくなるんだろうね。」そうして彼が言っていた言葉は、私の寂しさに理解をしてくれていた気がした。

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