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花束みたいな恋をした〜おままごとだった〜

 いまいちまとまりきらなかったので今日も書いてみる。

•この作品における「好き」の意味

 むぎくんときぬちゃんの会話は終始表面的である。サブカル好き、人とは違う一風変わった趣味を持ってる私たち、というプライドを持ち生きているようにみえるが、どの作品が好きかについて語るにとどまり深い考察などは一切ない。映画の尺の問題もあるのかもしれないが、この2人は本当に趣味としているものを心から好きなのか、疑問に思ってしまうレベルで興味が浅い。本当のサブカル好きはこんなものではないのではなかろうか。この2人はメジャーなものより通好みなものが好きな、通な自分に酔ってるだけのただのライト層なのではないか。この2人は本当に何かにのめり込んだことなんてないし、自分の「好き」の意味をじっくり掘り下げたことなんてないのではなかろうかと疑ってしまう。だから、表面的な恋愛感情から踏み込んでお互い深く理解し、愛し合うことも出来なかったのではないか。

•鋳型から抜け出したつもりでいたのに、実は最初から鋳型を抜けられずにいた2人

 やるべきこと(=社会に出て、働くこと)から目を背け、駅徒歩30分の多摩川が見える家で同棲を開始する2人。部屋には2人の好きなものを散りばめ、猫を拾って飼う、夢のような時間。に見えて、お互いの心は全く通っていない時間。

 就活、仕事、結婚など、世間の決めた鋳型からはみ出して5年の期間を生きたようにみえる2人。だが実は、2人とも鋳型にはまったままなのだ。昨日も書いたが、3回めのデートで告白しないとただの友達になっちゃうんだってというところから2人の付き合いが始まっているのがその最たる例である。これは恋愛の鋳型。その鋳型を守り、今度は彼氏彼女という鋳型にはまり、お互いこうあるべき、こうあってほしいという鋳型を自分で作り出し、押し付け合う関係になっていく。(むぎ君は結婚して、子供を作って平凡な幸せを維持していくという鋳型、きぬちゃんは付き合った当初のように趣味を共有するという鋳型)

 めちゃくちゃ趣味が合って気も合うよねー、私たち運命の相手だよねー、という理想の押し付け合いから始まり、相手が変化して理想も変わりすれ違いが始まる。この2人、頭がすごく固いのではないか。広告代理店脳のきぬちゃんの両親と本当は同じ人種なのではないか。

 2人とも恋愛という鋳型の表面をなぞっているだけで自分の「好き」の核心がわかっていないから、自分のやりたいことがわからないし相手のことも全く見ていないのではないか。鋳型から抜けたがっているように見せて、実は1番鋳型を求めているのではないか。

きぬちゃんの「3週間セックスしてない恋人にプロポーズするなんて」という発言にも、恋愛に対する固定観念が滲み出ている。

•花束みたいな恋=ただのおままごと

 雰囲気だけ盛り上がり、趣味の一致はあるが価値観は一致しておらずすれ違う一方。お互いの内面に踏み込まないから、コミュニケーションが成立しない。「会話がないの。ケンカにもならないんだよね」という虚しい台詞。

 そして運命の相手と思わせるだけのものがあった趣味の一致すらも、実はお互いよく思われたくて合わせていただけという部分も多かったこと。

 結局きぬちゃんとむぎ君は何がしたかったのだろう。この関係は、私たち恋してる!という雰囲気を演出したかっただけの、ただのおままごとだったのではないか。2人には確固たる価値観が見当たらないし、それを築き上げようとしている様子も見られない。物語の中で、すれ違う様子は描かれても、その関係によって成長した姿がまったく見受けられないのが空恐ろしい。

 その恐ろしさは最初と最後のカフェの場面に最もよく現れていると思う。きぬちゃんとむぎ君は互いに恋人を伴い、カフェで偶然再会する。そして、かつての自分たちと同じようにイヤホンを半分こして音楽を聴くカップルを見て、「君たち、音楽が好きじゃないね」と同時にケチをつけにいくのである。そう、かつて自分たちが知らないおじさんにされた受け売りである。自分たちはそのときおじさんに絡まれてうんざりしていたくせに、されて嫌だったであろうことを数年後に自分たちが繰り返すのだ。

 この不可解な行動を、2人は未だ通ぶりたいだけなのではないかと私は解釈した。だとするととても性格が悪いし、2人は成長するどころかむしろ退化しているのではないだろうか。現に、2人は現恋人のことをちゃんと理解し、愛しているようには見えない。恋人同士という型をなぞっているだけのようだ。かつての2人がそうであったように。

 きぬちゃんもむぎ君も、自分の作った物語をなぞっているだけで、相手のことを見る気が全くないのだ。楽しいところだけ味わって、ネガティブな部分を受け入れ合えない。2人はどこまでも似たもの同士、未だに共犯者である。最後に別れるシーンで背中越しに密かに手を振り合うところにそれが象徴されている。ある意味では、2人で作り上げた恋物語が、2人にとっては最高の「花束」だったのだろう。形だけ整えて、どこまでもがらんどうな関係。「男の子が女の子に花の名前を教えると、男の子は一生その花を見たらその女の子のことを思い出すんだって」と意味深なセリフを言っておきながら、肝心の花の名前は登場しなかったり。どこかピンぼけしてあやふやな、蜃気楼のような物語。

•制作意図が知りたい

 この2人の恋最高だよね!見て!という制作意図ではなく、薄ら寒い恋愛関係を描くことで恋愛とは、ひいては人間同士がわかり合うこととはなんなのかを問題提起したかったのではないかと思うのだが、実際どうなのだろう。

これが美しい失恋物語として作られたのであれば疑問を禁じ得ない。得るものがある映画であったことは確かだが、恐ろしいので2度と観たくない。



 

 

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