建築をめぐる三人家族の物語

第1章 無気力症候群

丸い肘掛け椅子に浅く座った先生は、白い無機質な天井を見上げていた。

時間にして二~三秒だったろうか、いやもっと長い時間のような気もしたが、目をゆっくり咲子に戻して静かな口調で、「光(ヒカル)クンの病気は〝無気力症候群〟ですね」と母親の咲子を叱責するように告げた。

 光はボンヤリ焦点の合わない目で診察室の窓から外を見ている。

咲子の頭の中で無気力症候群という言葉がグルグル回り、そんなバカなという信じられない思いでじっと先生の顔を見つめていた。

無気力症候群という言葉は、これまで咲子も幾度か聞いたことはあった。

それは人間関係のストレスであったり、新入社員が理想と現実のギャップで気力をなくして陥る「心の病気」ということは聞きかじりで知っていた。

しかし、まだ二歳を過ぎたばかりの乳幼児がそんな病気になるとは信じられなかった。

さらにショックだったのは、この病気は薬や入院では治らず、一日の大半を過ごす住環境や母親と子供の過ごし方を見直し、大きく家族関係を改善しない限り治らないということだった。なんの改善もなくこのままの状態が続けば、コミュニケーション障害が進み豊かな感情も育たず、将来引きこもり、不登校、家庭内暴力、そして感情の抑制がきかず犯罪につながる例もあるという。

光にはエリート教育をさせようと思い、0才から英会話や脳を活性化させるビデオを買い込みがんばってきたのに、教育方針どころか自分の生き方まで否定されるに等しかった。

先生が座っている後ろの白い壁には、幼児の正常な脳と虐待を受けた脳の断層写真が貼ってあった。光はまだ外に目を向けていた。咲子も窓に目を移すと、診療室の大きなガラスから庭の雑木林が見えた。中庭を囲むように、クリニックの診療室と自宅棟が続いていた。ナラやクヌギの下は、手入れが行き届いた植込みが見える。夏の日差しの中で風に青葉が揺れ、軒下に咲いている白い花や芝生に影が躍っていた。どこかで見たような庭であり植込みであったが、その場所も花の名前も思い出す気力も無いまま、光と一緒にぼんやり見続けていた。

少し落ち着くと、これから先どう改善していくかということより、今夜夫の武夫にどう説明しようか、ということばかり気になった。

子供は夫婦で協力しあって育てるとはいいながら、武夫は仕事で忙しく、ほとんど家には寝に帰るような毎日で、現実は一日の大半の時間を光と過ごしている咲子にとって、責任の全てを背負わされる気がして怖かった。


第2章 町屋の家 につづく


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