【素朴な疑問#1】人が最高値に達するのはいつだ?
人間は日々成長し続けている。
産まれたばかりの赤ちゃんも、先生を困らせるやんちゃな幼児も、元気いっぱいに遊ぶ小学生も、思春期に突入し多感になった中学生も、青春と受験の狭間で精一杯生きる高校生も、人生の夏休みとばかりに若さを謳歌する大学生も、社会に支えられた側から社会を回す側になった新社会人も、更なる出世やスキルアップを求めて励むベテラン社会人も、我が子を見守り育てる親も、そんな親を支える親の親も。何かしらの点において昨日の自分より今日の自分が、今日の自分より明日の自分が成長している。人生とは勉強と成長の不断の積み重ねであるのだから。
一方で、その代償に失うものも多くある。何かできなければ叱られる、その頻度や求められる基準は年々高くなっていく。子供の時はキラキラとした純粋さが、世間を知り大人になるにつれて穢れていく。柔軟な思考はいつしか硬くなっていく。ハリのある肌も、美しい髪も段々と様子がおかしくなってくる。新しいことを学ぶと昔学んだことは忘れてしまう。有り余っていたエネルギーで思うがままに動かしてきた身体はいつしか鈍くなっていく。
子供の頃には将来の自分はこうなりたいと理想像を描いてきた。今はその頃思ったこととは全く違う方向に進んでいるけれど、かつて学んだことを少しばかり忘れるという代償に、私が知りたくて学びたかったことをたくさん得ている。
こうありたいと描いてきた理想像に近づくことはできても、常にその理想は更新され、また遠くにいってしまう。昔読んだギリシア神話みたいだ。めちゃくちゃ重い岩を積み続けても、最後の岩を置く寸前に積み上げた岩が崩れていく、それを延々と繰り返す罰を与えられている…生きるというのはある意味こういう罰なのかもしれない。
私が最も「なりたい自分」に近づいているのはいつだろうか。
私が最も世間で「一番いい人」になれているのはいつだろうか。
良いと悪いはコインの裏表のような存在で、状況によっていくらでも良い方向にも悪い方向にも転じてしまう。人の揚げ足を取るのは簡単なのだ。大抵人間は物事を悪い方向に考える方が圧倒的に大変なのだから。ポジティブで居続けること、良いこととして活かすのは並々ならぬエネルギーが必要なのだと思う。
大河ドラマ「光る君へ」にて。
まひろちゃんが新学府を彰子さまに教えていたときの一言。
「瑕こそその人をその人たらしめるものなのです。」
日々玉を磨こうと私たちは必死に頑張っている。瑕がなくなるように磨こうと。だが本来磨くとは瑕をつける行為であり、ようやく目立った瑕がなくなったと思った時には玉は小さくなっているのだろう。長く向き合い続けるほど、時間も経って空気に曝され、酸化していってしまう。
いつの時点の玉が最も良かったのか、最も高値で売れたのか、私には分からない。
だが、磨いた本人にとって最も良い玉というのは、たとえ瑕だらけの玉であろうと今のありのままの姿を認め、愛すことができる瞬間の玉なのかもしれない。