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中1で2年間不登校になった話

なぜ不登校になったのか

きっかけは、「数学のテスト」であった。
中学に進学すると、小学生の頃とはテストのあり方や重要性が大きく変わる。

小学4年次にも一度、不登校を経験している私だが、家庭教師や塾に通わせてもらい、勉強が元々嫌いではなかったため、学習面での遅れはあまりなかった。
というより、勉強面で「わからない」経験をしたことがなかった。

そして中学に進学し、初めての中間テストを迎える。ここで私は、数学のテストで満点を取る。総合順位も、5位以内だった。私は初めて、順位で評価される世界を目の当たりにし、充実感とやりがいを覚えた。しかしこの出来事が、不登校への第一歩となってしまう。

中間テストを終えて少しした後、数学の図形の授業で、先生がπ(パイ)の問題を解説されていた。
そこで、私は初めて「1mmも理解することができなかった」。
あまりの焦りから、塾に走って駆け込み、狂ったように大汗をかきながら塾の先生に質問攻めしたことを今でも鮮明に覚えている。

次の授業から、私は授業で先生の言葉を1つも聞き逃さないように必死だった。

また、私は当時、運動部に所属していた。
私は小中高一貫の女子校に通っており、人数の少ない閉鎖的な空間の中で、上下関係に対応できず、かなり疲弊していた。

先輩は非常に厳しく、部活内では奇妙なルールがいくつもあった。
先輩にあったら爪先立ちで挨拶(先輩の姿が見えなくなるまで永遠に挨拶を繰り返す)、何があっても後輩から話しかけてはいけない等挙げたらキリがない。
今となっては「くだらない」で済む話だが、当時は大真面目に規則を守り生活していた。

私にとって、勉強と部活の両立は非常にストレスのかかることだった。

そして、GW明け、私は完全に学校に行けなくなった。
GW最終日に、母に学校を休みたいと言うことが本当に辛く、言い出しづらくて、夜まで何度も何度もチャンスを伺った。鬱病の症状が徐々に和らいでいた母がまた鬱になってしまうのではないかと思い、何度も何度も学校に行かなくてはいけないと気持ちを切り替えようとした。

しかし、どうしても行けないと思い、お風呂上がり、泣きながら母に謝り、学校を休みたいと打ち明けた。


不登校一年目

不登校になって一年間は、ひたすら寝て起きての繰り返しで、ただただ休息していた。近所のお医者様の紹介で、精神科に通い始めた。
精神科では、何か話そうとさせられるわけでも、話題を振られるわけでもなく、臨床心理士の女性と人生ゲームしたり、私が好きなことをだらだらと話したりしていた。
何の意味があるのだろう?と思っていたが、当時の私にとって、週に一度でも「通う場所」があることや、私のコミュニティには何にも関わりのない第三者の存在は、基本的には母と2人で過ごす私にとって、貴重な外との関りであった。
最初は、授業を受けていないことに対する焦燥感や絶望を感じていたが、徐々に現状を受け入れられるようになっていた。

不登校二年目

中学二年になり、母の提案で、家庭教師の先生についてもらうことになった。私自身、このままではいけないということはよく理解していたが、どのような前進の仕方があるのか見当もつかず、迷走していた。
そのため、母の提案は私が不登校から抜け出す道筋を示してくれるようなものだった。
私は、最初、自分の勉強の遅れと向き合うことに対して、かなりの恐怖心があった。たった一度の授業で理解できなかったことにパニックを起こした自分がどれ程落ちぶれたかを見せつけられるような気がして、初回の授業はとてつもなく怖かったことを覚えている。

家庭教師として来てくださったのは、40代の女性の先生だった。
不登校専門の家庭教師ということもあり、最初は無理に授業を始めることはなかった。色々なことを話して、週に二回、1時間から始めた。
英語と数学のみ、教えてもらっていたが、やはり少しも理解できなくなっていた。しかし、不思議と焦りはなく、やっと、前進したのだという充実感の方が大きかった。

それから、コツコツと数学・英語を中心に勉強に励んだ。しかし、週に二回の家庭教師以外の時間は勉強していなかったため、同級生との遅れは縮まるどころか開いていく一方であった。

別室登校

小学校から仲良しの子たちが3名ほどいたのだが、私はその子たちと不登校中も休日、よく遊んでもらっていた。

そして、ある日、会話の中で、「保健室にでも来てくれれば会いに行くのに」と言ってくれた。
私はこの時、大変うれしかったが、いつ誰が保健室に来るかわからない。もし、同じクラスの子たちに遭遇してしまったら?という怖さから、踏み出すことができなかった。

しかし、テストくらいは受けてみようかなと思い、別室で中間テストの受験をすることにした。
そして徐々にテスト範囲を少しでも把握するために、週に2回、別室に登校し、たまに授業のない先生方が教えに来てくれた。ここで私は、本当に色々な人がいるものだと思った。いつも嫌な顔一つせず、快くプリントを持って来てくれる先生もいれば、明らかに面倒くさそうにくる先生、こんだけ休んでたらもう復帰困難だろうとでも言いたげなトゲのある言葉を投げかけてくる先生もいた。これは人間の性なのか、優しくしてくれた先生の方が多いはずなのに、記憶に残っているのは見下すような態度を取ってきた先生のことばかりだ。

別室に行くときはいつも決まって、授業中の時間帯だ。
休み時間は生徒が教室から出ているため、遭遇してしまう可能性があるからだ。しかし、それでも私は、トイレの前を通らなければいけない別室に行くことですら怖くてたまらなかった。授業中とはいえ、トイレに行くために教室を出ていて誰かに会ってしまったらどうしようと、行きも帰りも常に緊張状態であった。いつも用意してくださる別室は、窓もなく、自分から望んで用意してもらっている場所なのに、息が詰まって仕方がなかった。

定期テスト

別室ではあるものの、定期テストを受けるようになってから、また順位の付く世界に戻ってきた。
やはり、テストの総合順位は下から5番目であった。一応、家庭教師の先生と学習してきた数学と英語はビリであった。

しかし、私にとって、現時点でここまで落ちているのなら、怖いものはないなと、トップ5に入っていた中1の中間テストの頃よりもずっと気が楽になっていた。また、1年以上のブランクがあっても「ビリではなかった」ことが大変自信となった。

家庭教師の先生にも助けてもらいながら、少し好きであった数学を1日3時間程度勉強するようになった。結局、中2の最後まで別室登校でテストを受けに行っていたが、数学は全体の上位3分の1まで成績を上げた。

他の教科はほぼビリであったが、この結果は中学3年の始業式に学校復帰する決断に大きな影響を与えた。


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