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そら豆を食べたら10年後にソムリエになった話

「おまえ...そら豆食べたことないのか?」

これは当時弱冠19歳、アルバイトで働いていたバーの店長に言われたセリフである。

「こ、これがそら豆か......」
ぼくは驚きを隠せないまま、はじめてみたそら豆をじっと見つめていた。

お客様を帰した後、カウンターはまかないを食べる場所に変わる。
さっきまでお客様が吸っていたキャスターマイルドの甘い香りがかすかに残っている。
スツールに腰掛け、数百種類のお酒の瓶が暖色系のライトに照らされているバックバーを見つめる。たくさんのお酒を眺めながらちびちびとなめるお酒は、さぞおいしいことだろう。

いつものようにお酒の瓶をぼんやりと眺めていると、バーカウンターの上にまかないが広がった。ぼくはこの時間が当時一番の楽しみだった。

テーブルにぽんっと出された物体を見て、ぎょっとした。
色味やフォルムを見て、どうやらこれは豆らしい、でも自分が知っている枝豆よりも遥かに大きいし、ん?なんだこれ、気持ち悪いな......と思った。

そこでぼくは「店長これ、なんですか?」と聞いたところ、冒頭のセリフである。

「いや、そら豆だよ。知らないのか?」
店長はまるで「おまえ、今まで息吸ったことないのか?」とでも言わんばかりの驚きの表情を浮かべている。明らかに、不気味がられている。

え、そら豆を食べたことないぼくって、そんなに変ですか?


ハタチ手前の青二才は、はじめてそら豆を食べた。そーっと、慎重に、おそるおそる口に運んだ。おいしいような、ちょっと青臭いような、でも塩味がちょうどよかった。しばらく咀嚼して、飲み込んだ。あぁ、これはきっと焼きたてだ。ホクホクしてて、おいしい。

「おまえは、いままで何を食ってきたんだ??」
店長は心底不思議がっている表情で、そら豆を咀嚼するぼくを見ていた。

***

ぼくはとりあえず、コロッケが一個あればいい子供だった。

ソースをドバっとかけて、コロッケ一個でどんぶり飯を大盛りで2杯かっこめる、そんな子供だった。
だからぼくはカレー、生姜焼き、牛丼、肉じゃが、みたいなとにかく白いご飯がすすむ茶色いおかずのレパートリーを19年間延々とループしていたのである。

当時は紫色が気持ち悪くてなすは食べられなかったし(今は大好き)、骨を取るのが面倒だから焼き魚は嫌いだったし(今は大好き)、うにとかいくらとか、得体のしれないものも一切口につけなかった。(今は大好き)
そう、ぼくは食材への知識が乏しい上に、極度の食べず嫌いだったのだ。


その日を境に、まかないの度にぼくの知らない食材が出るようになった。
驚きの連続だった。こんなにも知らない食材があったのかという驚きと、こんなにも美味しい食材があったのかという驚きがごちゃごちゃになって押し寄せてきた。

ぼくは徐々にバーに行く目的が「働きにきた」というよりも「知らない食材を知るためにまかないを食べにきた」という位置づけになっていた。


「今日もお疲れさまでした。いただきます。」

この言葉のあとに出てくるセリフは、いつも決まっている。

「これはなんですか?」

その度に店長は
「おまえは今までなにを食ってきたんだ」
「おまえはなにもしらないな」
とぼくをなじった。でも、どこかニヤついていて、嬉しそうにしている。
「今日はどんな食材を教えてやろうか」と考えているのが、伝わってくる。

といっても、いま考えればそんなに珍しい食材はなくて、「やげんなんこつ」とか「ほたての貝柱」とか「ほたるいか」とか「鴨ハム」とかだ。
それでももちろん、当時はもれなくすべてがはじめてだった。

しかも困ったことに、その全てが美味しいのだ。なんてこった。ぼくは本当に、どれだけ食べ物に無知だったのだろう。

ある日のまかない
「これはなんですか?」
「それはぁ、アンチョビってんだよ」
「これがアンチョビ!しょっぱいけどおいしいですね」
「ったくアンチョビもしらねーのかよ。チーズと合わせるともっとうまいんだぞ。覚えとけよ」

ある日のまかない
「これはなんですか?野草みたいな......」
「これはなぁ、ルッコラってんだよ。ったく、なんもしらねーなおまえは」
「ちょっと苦味があるけど、おいしい。」
「うまいだろ〜、これを皿に盛るだけで華やかになるんだよ。覚えとけよ」

ある日のまかない
「こ、これは...!」
「えぇー?これはなぁ、アン」
「アンディーブですね!この前どこかで食べました」
「なんでアンディーブは知ってんだよ!知らないと思って用意したのに!ったく」

店長もいつのまにか、「ぼくに毎回新しいものを食べさせるミッション」を勝手に作っていた。

結局、そのバーで4年働いた。その間、ぼくの食材の知識は超高速で高度経済成長期をむかえた。

食材だけでなく、カクテルやウィスキーの知識も右肩上がりについて、お酒にも詳しくなっていった。

食べることの楽しさを、ぼくはバーのまかないで知った。
そら豆をきっかけに、世界が広がった。

もっといろんな食材に出会いたい、もっとおいしい料理を食べたいという思いは、一粒のそら豆からぐんぐんと芽を伸ばしていった。

そして大学卒業と共にバーの仕事を辞めた後、世界一周旅行にでた。世界中の食材や珍しいローカルフードを食べ歩いた。

帰国した後、ワインバーで働いて、気づいたらワインが好きになって、ソムリエの資格をとっていた。

その後、もう一度世界一周旅行にでた。ワイン発祥の地であるジョージアでは、毎夜ワインを浴びるように飲んだ。世界一の美食街と呼ばれる、スペインのサンセバスチャンではバルめぐりをして、キューバでは葉巻をくわえながらモヒートをしこたま飲んだ。

いまではワインに合う料理やおつまみを毎晩のように追求し、ワインに合うレシピ開発をしてフードペアリングを発信する仕事をはじめている。

つい20年前までは、コロッケ一個にソースをドバっとかけて、どんぶり飯をかっこんでいたのに。

10年前は、そら豆さえ知らなかったのに。

今では生意気に「このワインはハーブのニュアンスを感じるから、チキンはローズマリーソテーにしようか」などとほざいている。

10年前は、そら豆さえ知らなかったのに。

いま、改めてそら豆を目の前にして食べると、なんてことない、普通のそら豆だ。

それでもあのとき、はじめて食べたそら豆が、ぼくの人生を変えるきっかけになったことは間違いない。

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