写経したら、速度基準で生きていることに気づいてもうた。
先日、取材の仕事で写経を体験した。初めての体験は何歳になっても楽しい。
写経はもともと中国からきた文を世に広めるため、とか僧侶が経典を学ぶ修行の一環のため、といった由来がある。
今では「心の平穏」「脳の活性化」といった体の内部に働きかける効能を目的としてされるようにもなっている。
講義は2回あったので、まずは1回目、5人の受講生が写経している様子を見ていた。見事にそれぞれ書くスピードが違う。丁寧にゆっくり書き進める人もいれば、サラサラと流れるように書く人もいる。
「写経って、丁寧にゆっくりと書くことに意味があるんだよな......?」と漠然と思っていたので、気になった。「書くスピードって、速いほうがいいんですか?やはりゆっくり書いたほうが心が落ち着きますか?」と僧侶に訪ねた。
僧侶は「書くスピードのルールなんてありませんよ。それぞれが心地よいと思うスピードで写経すればよいのです」と言った。
ルールがあると、ついついそこに縛られてしまう。でも、ルールがあったほうがやりやすいのも事実。
「好きなスピードで」と言われても、ついつい周りの書くスピードに合わせてしまいがちだ。書くスピードに決まりなんてないのに。
2回目の写経講義で、ぼくもチャレンジしてみた。4人が向かい合ったテーブルでいざはじめてみると、やっぱり周りのペースを考えてしまいがちで、「速いかな?いや、ゆっくりすぎるか......?」と考えてしまう。
「いや、違う。ルールなんてないのだからスピードに意識を向けるべきではない」と頭を切り替えてみる。
意識的に周りを見ないように、文字を写すことに集中した。書き終わった後周囲に目を配ると、他の3人はまだ半分くらいまでしかいってなくて、ぼくがダントツにはやかった。
心のどこかで「速く書かなくちゃ」「遅くなって迷惑をかけないようにしなくちゃ」「他の3人よりも速く書いて一番に書き終わりたい」という気持ちがあったのだろうか。一度着手したものは速く終わらせたいという先天的な気持ちがあるのだろうか。
なんでもかんでも速いから良い、遅いから悪いというわけではないけど、なんだか「速い=◯ 遅い=✗」といった価値観が多い気がする。
足は速いほうがモテるし、仕事は速いほうが評価される。遅いほうがいいことってなんだろう。
他者が関わることは、一般的には速い方が良いとされる気がする。でも写経は、他者との関わりがない、自分だけの世界のなかで行われる作業だ。写経ってじつは、速度と無縁の世界に身を置くことに意味があるのでは......と謎の深読みをしてしまった。
自由は常に制約のなかにあると言われるけれど、速度基準のない世界で生きるって、それはそれで苦しいのかもしれない。
「なんでもいいよ」「いつでもいいよ」ほど、困ることってないもんなぁ。
「遅いほうが評価される」ことって、何かありますかね?
娘のオムツ代とバナナ代にさせていただきます。