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生きる目標が無いというのは、しがらみが無いこと?



来春4月、清浄明潔。


私はたぶん、社会人の1年目を迎える。

世間一般でいう

「卒業」

の中でもとりわけ、大学を巣立つ年というのは
分岐点、と言うんだと思う。
なんせ、卒業を経験したらだいたい、すぐ社会人になるもんで。
(そのような人が圧倒的に多い)
どうにかして、大人になることをやめられたらな、なんて思うのはごくごく当たり前。
みんなたぶん、そうやって社会人になっていったんだろうと思うから。



「社会人」
これに近づくにつれて、
(そしてこの歳になると、)
いろいろ心に上ってくることがある。

この単語をあたまの中に思い浮かべるたび、
毎日まいにち、心がひっくり返って別の人のものになってしまったようで、その心の変化を、
変わらない自分が遠くから見ている感覚がする。

「求人の検索しなきゃ!」「将来は稼ぐぞ!」「お客様に寄り添える仕事を」と意気込む明るい自分が生まれてきて、それに気持ちが翻弄されてしまうことがある。
翻弄される、というのは、自分の本性はもっと深い、くらい地面の底に浸ってしまっているから。


心の奥にいる自分はただ、大人になりたくない、と呟いている。表面の心は急に大人になることを覚え始めて、それについて行かない意志と行動が足を止めようとする。

そんなちぐはぐな自分を抱え始めて、だいたい1年が経過した。ついこの間まで学生だった自分が、
まだ大人になることに戸惑いを感じている。



そもそもちぐはぐになったきっかけって、
なんだったっけな。



大学3年の、6月。


大人になんてなりたくない
と言っていた友人たちが、


ある日突然、一斉に社会の方を向いた。

それまで他愛もない話だったのが、
インターンや、就職の話をし始めた。

なるほど、これが大人になることかと。


でも、


わたしの心は、社会の方を向けなかった。


もしかしたらブラック企業の話や、正社員が辛いだとか、雇用が破綻してどうのとか、薄給がどうのとか、そのような話をたくさん聞いていたからかもしれない。

もちろん実際にはそうでない会社も多いし、仕事が就きたかったもので、理想のライフスタイルを築いていらっしゃる方も沢山いることを知っている。

でも、社会の方を向くことはできなかった。

世代かな、とも思った。

今はゆとりがあって、選ぶ権利が多くて、だからこそふらふらと漂流する人が多いのかも。
がむしゃらに働いて、とりあえず自分の足場を確立しよう、そうもあまり思えなかった。


でもわたしには、目標はあった。

将来を安定させて、好きな趣味と、、、
そして旅行にたくさん行く

これはずっと、就職への、考えの基盤にあった。

だけど、具体的な過程が思い浮かばなかった。
これを達成するために、がむしゃらに働く自分の姿が想像できなかった。

自分は欠陥品、なんだろうか。

社会の中の置き去り者として、このまま弾かれて、不適合のレッテルを貼られておしまいなんだろか。

趣味は続けたいとして、それが生きる目標になり得るかどうかというのは、また別問題じゃなかろうか。

生きる目標が無いというのは、しがらみが無いこと、なんだろうか。
生きて目標をもち、仕事をすることで、

「しがらみが多い」

と嘆く人も結構いると思う。
だから自由に生きれるっていいねと、思われることも多いような気もする。
だけど特段の目標が無い、っていうのは、食い止めてくれるしがらみにすら引っかからないわけで。

ゆく川に乗って絶えず、元の水にも戻れず流れていくのは、私のような半端な人間じゃないのか。

SNSやインターネットの情報を頼りに生きてきた今の人たちは、世界は広いことを知ってるからこそ、自分が成すことを小さいことだと考えてしまうことが多いような気がする。
そんなことは無いはずなんだけれども、1度考え始めたら止まらない。

そうしてちぐはぐな心と毎日変わらず、
戦っている。


社会人になったら、何者かになれるんだろうか。

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