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自己否定からの解放ー自分を知り荒波を乗り越えたワタシの半生記40.間に子がいる夫婦とは

今日、整体の先生に「運動得意ですよね? なにやってました?」と聞かれビックリした。ずーーーっと長い間「自分は運動がニガテ」と思ってきたが、実はただの思い込みだったのかもしれない。
(脚が、運動ができるヒトの脚、らしい)
人間って生きてるうちに、いろんな思い込みで完成されてくんだろうなーと改めて感じた。

たぶん、いま思ってる自分のこと、全部一旦疑ってみた方がいいと思う。

さて。時を2000年代に戻そう。
こうして子どもがいるようになってからの生活を綴っていると、オットの存在感がめちゃくちゃ薄れていることに気づく方もいると思うので、一度このタイミングで触れていこうと思う。よく昔は「子はかすがい」なんて言われていたようだが(いやいやこの当時もいまからみれば昔なんだけどwww)この、2000年前後の時代の子育て世代にとって、子は、

改めて夫婦のあり方を考えさせられる存在
自分を見つめ直すきっかけ

だったんじゃないだろうか。

要するに、夫婦二人でいるうちはいいのだ。お互いを思いやれればそれでいい。けれどそこに、もっと気を遣わないといけない存在が急に現れる。母となった女性は「これからはパパと一緒にこの子を育てていくんだ!」と思い、ベクトルが完全にそっちに向く。そして女性は、父である夫も方向は一緒だと思ってる。

しかし、実際はそうではない。
「夫婦で協力してー」なんて思っているのは母だけに過ぎない。それまでの夫たちがそうであったように、彼らのほとんどは『俺の仕事は外で完結。家のことは任せた』なのだ。家に帰って自分にやらなければいけないことがあるなんて、思ってもいない。だから母である自分の妻がやたらあたふたしていても気にも止めない。

昭和のオトコってそうだった。
※オトコとかオンナにすることで、なんとか話題をライトにしようとしているw
そしてオンナは家のなかで起こる全てのことを、自分で(あるいはお姑さんと?もっとタイヘン)こなしてきたのだった。
実際、ワタシの友人をみてもそんな印象だ。
夫婦ってそんなもん
家族ってそんなもん
世間はそんな空気感だったのだ。

しかし、時代の変化がオンナに疑問を抱かせた。
あたしたち、なんか割り食ってない⁉️
なんか損してない⁉️

夜中でも構わず腹へった~と泣き叫ぶ我が子。
トイレの存在も知らないから、ところ構わずし放題。
具合が悪くなりゃ、機嫌も悪くなる。

それを”一緒に”ケアしてくれる、フォローしてくれると思って期待したオットは、ワタシの期待には応えてくれなかった。

彼にとっては、家は休む場所。外での仕事は確かに気を遣いタイヘンだろう。確かにそれは間違ってないけれど、だったらワタシもそうしたい。
いまはそうじゃない状況だって、わかっているハズなのに。
それこそ文字通り24時間体を張って育児をしているワタシに、彼はまるで気づいていないかのようだった。見ないふりという感じでもない、見えていても自分が何とかしなければという思考にはたどり着かない風で、それは逆に恐怖を抱かせた。

例えば、目の前で子どもが嘔吐しても何もしない。具合の悪い様子を感じ取り、焦って洗面器を持っていくワタシに
「あぁ、間に合わないわ」
と、様子を眺めながら言う。

例えば外出して、スタバに入る。
息子を抱っこしながらお茶しているとき、息子がワタシのカップを倒す。テーブルの上にカフェラテが海をつくる。「うわっ!」焦るワタシ。
何もしないで眺めてるオット。

徐々に、ワタシのなかに(なんだこれ)(こんなはずじゃなかった)という、雨雲のようなモヤモヤが大きくなっていく。あんまりにも大きくなりすぎると、もう、ヒトって無力になる。あきらめる。

ワタシがいま、悔やむのは、ぶつかれなかったこと。
場を乱すこと、ヒトに意見したり議論したりすることが得意じゃないワタシは、オットにも”きちんと”不満を言えず、溜め込んでしまった。
溝は自らつくり出してしまったもの。
溝を深くしたのも、実は自分なのだと、いまなら思える。

いや、実際その当時の自分をみたらね、それはムリだろうって思うかもしれない。だけど、もうちょっとなんかできた気がするのだ。
相手のせいだけにせず、自分が変わることで、状況がもしかしたら変わっていたんじゃないかって、思うのだ。

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