幸せになりたいーー。そう願ってはいけないような気がして。
今どきのインタビューは自宅で行われるようで、そこには生活感溢れる背景が映っていた。
記者が家族に問う。
「一家の夢は何ですか?」
家族は声を揃えて答えた。
「幸せになりたい」
思いやりを語った7分間が消え去ったような答えだった。
例えばどこか改まった場で「夢」を聞かれたら何と答えるだろうか。
マイクを向けられ、皆が回答を待っている。
学生なら「就きたい職業」や「志望校合格」を挙げるだろうか。社会人なら「昇進」や「独立」、あるいは温め続けた「野望」を語るだろうか。
心やさしい誰かは「ひとの役に立ちたい」と答えた。「たくさんのひとを幸せにしたい」と。
たちまち辺りは拍手に包まれる。「偉い」とか「立派だ」なんて言葉が飛び交った。
そんな場で、あるひとが「幸せになりたい」と答えたらどう感じるだろう。少し違和感を覚えはしないだろうか。
何だか自分本位のような気は、しないだろうか。
これから始まる文章はそう感じた方に読んでほしい。
先日、ある記事がSNSに流れてきた。
『財布拾っただけなのに』
映画のようなタイトルが目に留まり、記事のページへと飛んだ。そこには文章とともに7分ほどの動画が置いてあった。
5分を超える映像が付いているなんて珍しい。
そう思って記事より先に動画へ向かった。
お馴染みの三角のボタンを押せば柔らかいピアノの音が聴こえてくる。
――当たり前だと思っていた。
字幕と音楽だけで始まるそれは何だかドキュメンタリー映画のようで、私は戻るボタンを押すことなく映像に見入っていた。
カメラを向けられていたのは海外の方だったから、ゆったりと流れてくる英語が心地良かったのかもしれない。
話はもちろん、財布を拾ったところから始まった。
主人公は日本の大学に通うナイジェリア人。博士課程で学んでいて、ふたりの娘を持つお父さんだ。
今年の初夏、彼は大学からの帰り道で財布が落ちているのを見つけた。
中を見てみると数枚の1万円札とクレジットカードが入っていて、落とした人はさぞ悲しんでいることだろうと彼はすぐに交番へ届けることにした。
警察官から
「拾ったお金の10%を受け取ることができる」
と言われたけれど、彼はその申し出を断った。
何日かした後、彼のもとに一本の電話が入った。
それは財布の持ち主からの、感謝を伝える連絡だった。次の日には警察から、無事持ち主のもとへ戻ったと封書が届いた。
そこでハッピーエンド、かと思いきや物語はここから大きく動く。
ちょうどその頃、世界各国でナイジェリア人が逮捕されていた。
「すべてのナイジェリア人が犯罪者なのではない」
そんな思いから、彼はSNSに一連の出来事を投稿した。財布を拾ったこと、交番に届けたこと、報労金を辞退したこと、落し物は持ち主へと戻り感謝の言葉を貰ったこと、そしてナイジェリア人のことを丁寧に綴った。
すると、その投稿は母国の大使館に届くまでに拡散された。彼には感謝の意が示された書簡が送られたが、話はここでも終わらなかった。
母国の大統領にまで、その話が伝わったのである。
そしてさらに大統領は彼の行動を称える声明を発表したのである。
彼はそれを誇らしく思った。
と同時に、別の思いが湧いた。
「日本では当たり前のことをしただけだ」
そんな思いから、彼はナイジェリアに住むひとに「正直であること」を教えるため財団を作った。そのことを知った財布の落とし主が寄付をしたいと言ってきた。
――善意の輪が広がっていきました。
そのナレーションが行き過ぎた演出のように聞こえた。続けて彼が夢を語る。
「他人を思いやる気持ちを広めたい」
良い話が過ぎてフィクションかと思ってしまった。
あまりの出来た話に、私はそんなひねくれた感想を持った。
次の言葉を聞くまでは。
「一家の夢は何ですか」
記者の問いに一家は答えた。
「幸せになりたい」
「そして周りのひとを幸せにしたい」
――逆ではないかと思った。
「周りの人を幸せにして、幸せになりたい」と締める流れではなかったか。
そのことが財布の話よりも気になった。
たった今まで「他人への思いやり」の話をしていたのに。「幸せになりたい」なんて急に自分本位な願いを出してきて。
あれだけ良い話が並んでいたのに、どうしてそんな願いを持って終わったのだろう。
私の正直な感想がそれだった。
疑問が残ったまま映像を閉じたそのとき、
画面の下に
『電通過労自殺から5年』
という見出しの記事を見つけた。
それを見て唐突に「当たり前なんだな」と思った。
夢を聞かれてまず「幸せになりたい」と願うのは、ナイジェリアの方にとって「当たり前」なのだと。そして、そう願うのは日本では「当たり前」だと思われていないと。
日本では「幸せになりたい」なんて願いは大きな声で語られないと思う。犠牲の上に立った「他人の幸せ」の方が、「自分の幸せ」よりも評価されるように思う。
苦しくて辛くて、どうしようもないときに「幸せになるために逃げる」という選択肢が用意されていない。
それはきっと「他人の幸せ」を崩すからだろう。
そこで言われるそれは多分、ちょうど良い理由として使われているだけだろうけれど。
「他人の幸せ」を盾にして、自分の幸せを願わせない。そんな中で生きるのは、死ぬよりも苦しい。
だから、苦しくて辛いならこの世から消えるほかないのだ。
どんなにみっともなくても「幸せになりたい」と願って良い。
反対に、どんなに幸せでもそう思って良い。
誰もが「幸せになりたい」と願うのは当たり前のはずだった。
そのはずだったのに、いつしか自分の幸せの上にあるはずの他人の幸せが、その下に置かれるようになった。自分の幸せを一番に願うのが躊躇われることになってしまった。
財布を拾って届けるのは日本での当たり前だった。
けれど、夢を聞かれて真っ先に「幸せになりたい」と答えることは当たり前ではなかった。きっとそれは財布を届けるよりも大切なことなのに。
そのことに気づかせてくれたのが、あの一家の夢だった。
たくさんのひとの努力や我慢によって何とか成り立っている世界において、真っ先に自分のことを願うことは身勝手なように思う。
多分私がこれから言うのは綺麗ごとなのだろう。
それでもやっぱり「幸せになりたい」と胸を張って言えない場所は間違っていると思った。
支えてくれているひとが幸せでない世界に、私は居たくない。
私はこれを読むひとに幸せになりたいと願ってほしい。
大変なときにそう願うのは難しいことだけれど、消えたいなんて思わずに「幸せになりたい」と思ってほしい。初めにそう願える世界であってほしい。
「たくさんのひとを幸せにしたい」
その夢は本当に「立派だ」と言われるものだろう。
けれど、そう願うやさしいひとほど幸せであってほしかった。
どうかこれから先がやさしい誰かにとって、もう少し生きてもいいなと思える世界でありますように。それが当たり前になりますように。
このnoteがそのきっかけになることを、心から祈っている。
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