見出し画像

障害児の親が、障害者への不妊手術強要問題…のコメントについて語ってみた。

何かと物議を醸しているこの問題…のたまたま見たコメントついて、思う所を書いてみたい。

今行われている裁判では「法律」に則って判断される。
その法律の解釈についてコメントされているなら、まだ理解できる。
しかし、ネット上のコメントを見ていると、誰一人、法的解釈を論じてはいない。


みな、感情論で話し合っている。

これでは、問題が違う方向に進んでしまうし、多数の誤解や偏見が生まれてしまう。

ネットのコメントでは



「誰かの助け無しに子供を育てられないのなら、子供なんか産んではいけない」

「そもそも、税金のかかる障害者は存在してはいけない」


なんて意見も多数あった。
こういった意見に全面的に賛同する方もいれば、部分的に賛同する方もいるだろう。

「そんなの人権の侵害だ」と反論する方もいるだろうが、そもそも「障害者に人権なんか無い」というスタンスの人達に「人権」を武器にした所で意味は無いと思う。

彼らがなぜこの発想に至れるのかというと「自分には関係ない」と思っているからだと私は思う。

そこで、今回私は、あえて彼らのフィールドで「お前人生、障害者と関係あるんやで?」という問題提起をしてみたいと思う。

彼らが「自分と障害者は 無関係 では無い」と知った上で言っているのなら、それは仕方ない。
どんな意見を持とうが、個人の自由だ。

しかし、無関係では無いと知れば、意見が変わるかもしれない。
私はそこに希望があると思う。

「知る」

全てはここから始まる……はず。






私が、現代でなく原始時代に生まれて来ていたとしたら、間違いなく「障害者」という枠組みに属する事になる。

私は、メガネをかけている。
裸眼では、両目で見ても一番大きなランドルト環がボヤけて確認できない。

しかし、メガネというアイテムのお陰で、何不自由なく生活出来ている。
現代では、メガネやコンタクトをしている人を「視覚障害者」とは誰も言わない。

だが、それは現代だからだ。
原始時代にはそんなアイテムは無い。
と言う事は、原始時代では、私を含めメガネやコンタクトに頼っている人達は、視覚障害者だ。

「障害者に人権なんか無い」と主張している人で、メガネやコンタクトをしている方は滑稽だ。

しかし、原始時代であっても、彼らは間引かれてない。
当時から、人間は集団で生活をしていた。
集団で生活をする事によって、視力が低く狩猟が出来ない人も、矢尻や槍の穂先は作れる人となれば、その集団に欠かせない人になるだろう。


では、何も出来ない人はどうだろうか?



「人の世話だけ出来る人」に、役割を与える事が出来ている。
「何も出来ない人」がいないと「人の世話だけ出来る人」もまた、淘汰されてしまう。

「狩猟は出来るけどその他は何も出来ない人」もそうだ。
狩猟が出来ない人がいるから「狩猟をしてくれてありがとう」と言われるのだ。

全員狩猟が出来るなら「料理出来ないなら狩るなよ、獲物減るやんけアホか」と言われるのだ。

人類はそういう「お互い様」「持ちつ持たれつ」で進化・発展してきた。


メガネの話ばかりで申し訳ないが、過去に視覚障害者という存在がいなければ、メガネも発明されてない。

卵が先か鶏が先かという話と違って、間違いなく視覚障害者が先だ。
百歩譲ってレンズが先だったとしても、視力が良い人がレンズ越しに物を見ても、歪んで見にくいだけ。
視力が低い人が見て初めて「ちょ…めっちゃ見えるんやけど」となるのだから。

過去に視覚障害者がいたお陰でメガネが開発され、そのお陰で私は今、視覚障害者ではなく「視力の低い人」として生きている。
視覚障害者を間引く事なく、彼らと共に生活をしていた人達がいたからこそ、私は生きていけている。

もちろん、これは視覚に限らず、聴覚も知的も精神も身体も同じだ。

「人の手を借りないと生きていけない人」を間引いていたら、間違いなく人類は滅んでいる。

きっと滅んだ人類(の手前?)もいただろう。
現代に生きるすべての人類は、過去にいた障害者という存在から、多大な恩恵を受けている。

だからといって「障害者に感謝しよう!」と言うつもりは無い。
「障害者と無関係な人なんていない」という話だ。


日本人にはそこまで馴染みは無いが、ユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストだってそうだ。
アウシュヴィッツ強制収容所で行われた人体実験で得られたデータによって、我々は医学的恩恵を受けている。


当たり前だが、ホロコーストの肯定では無い。

私が言いたいのは、我々日本人だってその恩恵を受けてるんだから「無関係」じゃないって事。


「障害者」という存在に蓋をして、見て見ぬふりをし、自分達と関係ない人達と勘違いして生活をするなんて、原始時代よりも遅れている。

過去にも記事にしたが、障害者がいる事によって、どれだけの人が仕事を得ているかご存じだろうか?



障害者を不快に思うとか、そんなのはどうでも良い。個人の勝手だ。
オッサンやオバハンが嫌いだとか、ヤンキーが嫌いとか、ギャルが嫌いとか、デブが嫌いとかと一緒だから、好きに思えばいい。

私だって、喫煙者には嫌悪感がある。
彼らは税金を多く払ってくれてるが、そんなのは百も承知だ。臭いもんは臭い。

でも、だからと言って喫煙者を見ても石を投げないし、暴言も吐かない。死ねば良い、とも思わない。

ただ『臭いな…』と思うだけだ。

あとは、分煙して欲しいな、とか。
臭くないタバコがいいな、とか。
吸った人だけ不健康になるやつがいいな、とか。

でも、無関係だからどうでもいい、は違う。
そもそも、無関係じゃないんだから。
しかも、恩恵すら受けてるんだから。

関係があると知る事。まずはここ。
その上で、考えて欲しい、発言して欲しいと思う。


もしかしたら来年、障害児育児で苦労している親の意見を参考に「妊娠前の遺伝子操作」を認める法律が出来るかもしれない。

もしそんな法律が出来たら、再来年以降に生まれてくる子供はほぼ全員、健常児だ。
再来年以降に生まれてくるあなたの子供は、過去に障害児がいた事によって出来た法律のお陰で、健常児なのかもしれない。



障害者と無関係なんて、絶対ありえない。

だから無責任な事は言っちゃいけない。
それによる反発やら賛同全てに、責任を取る・受け止めるなら良いけど。


と、こういう見方をしてみたが、いかがだろうか。
勢いで書いたから穴だらけかもしれないけど、雰囲気だけでも(笑)




ちなみに、不妊手術強要問題の是非に関しては、私に法的知識が無いのでコメント出来ない。裁判所って、感情で判断する所じゃ無いと思うので。

でも、感情論になっていいなら

『国が推し進める事って、国民にとって怖い事ばっかりですね』

と、コメントするかな。
ほんま、この件は怖すぎる話やと思う。

一体、何を信じたら良いんでしょうね。




この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,854件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?