怒りの話
人生において理不尽に怒られる経験というのは何回かあるだろう。
理不尽に怒られると逆に怒りたくなる気持ちになる。
今回はそんな、
怒りの話
怒り──
ときに人の原動力に。
小学校4年生のとき男の音楽の先生が新しくやってきました。高校時代アメフトをやっていたという彼はガタイが良く、ピアノもドラムもなんでもできる先生でした。僕はその先生が大好きで、他の生徒からも人気でした。なぜなら小学生の僕らに対して「対等」だったからです。決して先生面することなく、偉ぶることも、上から目線なこともなく、まるで友達のような先生でした。しかし、こと音楽に関することになると厳しい人で、小学生にとっては少し厳しすぎる面もあったんじゃないか、と思うこともありました。(僕はそこも含めて好きだったんですが。)
そんなある日、運動会の鼓笛隊の練習をしていたときのことです。鼓笛隊は5・6年生全員が笛を、僕も所属する音楽クラブの人たち(4・5・6年合同)が太鼓などを演奏しながら、校庭を行進するというものでした。全員で行進の練習をするというのはそれはもう大がかりなものでした。行進を始め、しばらくは順調に進んでいました。ところが、中盤に差し掛かった時、ふいに周りの音がズレ、行進が止まってしまう事態に。そのとき
「全体に迷惑がかかるんだから!しっかり演奏しろ!」
怒号が飛んできました。どうやら音楽クラブの僕たち4年生に原因がある、と怒っている様子。
”どうやら”というのは、その時の僕はミスをした自覚が全く無かったのです。僕以外の4年生もそんな様子でした。自覚が無いほど、しっかり演奏で来ていた自負があったのですが、そこで飄々と「僕は間違ってない」と主張できるほど肝は座っていません。怒っている先生、行進を止めてしまった罪悪感から、半泣きで「ごめんなさい」を言った記憶があります。
ミスをしていないのに、「ミスだ!」と怒られる。これはどう見ても理不尽に怒られた、といえるでしょう。
1年後、先生はこの出来事を思い出して、5年生になった僕たちにこう言いました。
「運動会の時、怒鳴ったことがあったよな。あれは先生が間違ってた。お前らは全くズレてなかった、上級生の担当パートに問題があった。すまん。」
Twitterを眺めていると、嵐の二宮くんが日テレの新入社員に向けた名言というのが取り上げてられていました。「理不尽なここと言われたりとか納得できないことで怒られたりするとおもうんですけど、そんな先輩たいした先輩じゃないから、ハイハイって聞き流してれば大丈夫だから。」
さて──
理不尽に怒る人はたいした人ではない。
その通りだと思います。
ですが、あとでその行為を振り返って、いくら相手が小学生でも「あのときは悪かった」と謝れる人は“たいした人”ではないでしょうか。
怒ることは簡単です。
感情としても一気に加速するものなように感じます。
たとえ怒ったとしても「謝れる大人」になりたい、そんな風に思います。
最近笑える感じの話を書けてませんが、
今回は、この辺で。
つたない文章や絵ですが読んだり見たりしてくださり、ありがとうございます。僕のnoteを読んで「ふっ。」と「ほっ。」ときっと出光してくれたらエネゴリ君になります!不束者ですが、何卒。