映画「ゴジラ-1.0」2023年東宝
Amazon プライムの超目玉作品として、昨年11月に公開されたばかりの「ゴジラ-1.0」の見放題配信がスタートいたしましたので、鑑賞させていただきました。
とにかく、この作品のレビューを書くにあたっては、ネタバレ全開でいきたかったので、このタイミングまでお待ち申し上げていた次第。
映画公開後は、映画系のYouTuberの動画が競ってアップされていました。
だけが挙げても、ゴジラと謳えば再生数が稼げるネタだったのでしょう。
山崎貴監督自身も積極的にネット出演しており、監督自身が映画について語る動画もたくさんあり、情報ソースとしては、ネタバレありなし含め、ゴジラ情報にはたくさん触れていました。
そして、概ねどの動画も「これまでで最高のゴジラ映画」という評価が定番になっていたので、期待はもちろん膨らんでおりました。
さて、いざ鑑賞としようと思って、ラインナップを見ると、この「ゴジラ-1.0」配信と同時に、なんと過去のゴジラ作品もすべて見放題になっているではありませんか。
性格的にラーメンのチャーシューは、最後まで取っておいて食べるというタイプの人間ですので、ここで「待てよ」という思いが脳裏をよぎります。
ここは、過去の未見ゴジラ作品を全部見てから、本作を鑑賞するのもありだなと思ってしまったんですね。
美味しいチャーシューは最後まで取っておこうというわけです。
「ゴジラ作品は全部見たぞ」
とりあえず、この既成事実を踏まえたうえで、本作のレビューを書けば、幾分かは深い掘り下げも出来るかなと踏んだ次第。
大本命の最新作は最後に取っておいて、その前にたっぷりと予習時間をとり、ゴジラ・リテラシーを上げておくのもありだなと思ったわけです。
ハマっていた時期も、疎遠になっていた時期もありましたが、おもえば、ゴジラとの付き合いも長い世代です。
まずは過去に不義理をしていた作品にもきちんと向き合った上で、最新ゴジラと対面しよう思った次第。
〇 過去のゴジラシリーズ
僕自身は今年65歳を迎えて前期高齢者になったばかりの身であります。
ちょうど第一次怪獣ブームド真ん中の世代ですね。
1954年の「ゴジラ」と1955年の「ゴジラの逆襲」には間に合いませんでしたが、1962年の「キングコング対ゴジラ」以降のゴジラに作品は、1969年から始まった東宝チャンピオン祭りを通じて、全作品映画館に見に行った世代です。
もちろん、マルサンのゴジラ・ソフビも持っていました。
しかし、ゴジラ映画を映画館(主に大宮東宝白鳥座)に見に行ったのは、第11作にあたる「ゴジラ対ヘドラ」まででした。
この作品は、かなり異色のゴジラ映画で、今でも少々トラウマになっています。
昭和ゴジラシリーズは、これ以降も、1975年の「メカゴジラの逆襲」まで4作品が作られますが、この間に作られた4本は、今見返しても少々つらいものがありました。
かなり予算が削られていたことで、派手な特撮が出来なかったのが一目瞭然です。
街の破壊シーンなどは、過去作品を流用していましたね。
ちょっと痛々しかった。
「メカゴジラの逆襲」は、過去に多くの怪獣作品を手掛けたモンスター・マスター本多猪四郎の最後の作品になりますが、彼の手腕をもってしても、低予算によるB級化は避けがたいものになっていました。
これくらいの特撮なら、映画館に行かなくても、テレビで見られるという現実は、ゴジラ・シリーズにとっては致命的でした。
こちらもそろそろ高校生という年齢になっていましたので、いつまで怪獣オタクでは具合が悪かったということもあります。
そして、ここから9年のインターバルの後、ゴジラ30周年を迎えた1984年に、満を持して「ゴジラ」が製作されます。
映画館ではありませんでしたが、これはレンタルビデオで見ています。
これは東宝が製作費も気合も入れていたことが伝わる作品で、昭和ゴジラで、97万人にまで落ち込んでいた観客動員は、320万人にまで回復します。
(ちなみにゴジラシリーズ最大の動員数起こったのは、「キングコング対ゴジラ」の1225万人です)
そして、1989年の「ゴジラVSビオランテ」から1995年の「ゴジラVSデストロイア」まで、毎年一本ずつが東宝正月映画として製作されます。
これがいわゆる平成ゴジラ・シリーズということになります。
このシリーズ中2作の監督と、4作の脚本を担当したのが大森一樹。
ちょうど、昭和ゴジラ・シリーズを見て育ってきた世代の監督です。
まだCGは一般的ではない時代ですので、従来通りのミニチュア・ワーク中心の特撮です。
但し、オプチカル処理技術は、ウルトラマンの時代よりは進歩しているので、やたらと光線や熱放射などが飛び交う特撮映画という印象でした。
オールド・ファンとしては、昭和ゴジラシリーズで、主演を演じていた東宝のお馴染みの俳優たちが、この頃には博士や長官などに出世して脇役で出演しておりニンマリしてしまいました。
平成シリーズで特筆すべきは、ゴジラとテレパシーを通わせられる超能力を持つ女性三枝未希(さえぐさみき)を演じた小高恵美。
彼女は、同じ役で平成ゴジラ・シリーズの6本すべてに出演しています。
そして、ここから4年のインターバルをおいて1999年に復活したのが「ゴジラ2000ミレニアム」です。
以降2004年までの正月映画として、計6作が毎年一本ずつ制作されていきます。
この中で一番成績が良かったのが、金子秀介監督によるシリーズ第25作に当たる「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」。
金子監督は、1990年代の3本の平成ガメラ・シリーズで、怪獣ファンの間で一気に名を挙げた監督です。
ミレニアム・シリーズの大きな特徴の一つは、ヒロインたちがメインになって活躍する展開にシフトしてきたことでしょう。
田中美里、釈由美子、吉岡美穂、菊川怜といった当時の若手女優たちが、男性顔負けのアクションを披露して、物語を引っ張っていました。
個人的には、釈由美子の気合の入り方が、妙にツボで好きでした。
携帯電話やPCが広く一般的になってきた時代で、それは映画にも大きく反映されていましたね。
しかし、こういったデジタル機器は、日進月歩で進歩してきましたから、当時は新しくても、今見直すと、逆に時代を感じさせてしまいます。
2004年の「ゴジラ FINAL WARS」では、過去作品を徹底的にオマージュし、登場怪獣も過去最大にし、ハリウッド映画「マトリックス」ばりのアクション・シーンを取り入れ、音楽も掟破りのキース・エマーソンという内容で、新機軸を打ち出そうとしていましたが、興行成績は振るわず、ここでシリーズは三度目の幕を閉じることになります。
ちなみに、この時期のゴジラ・シリーズは、アニメ「とっとこハム太郎」と同時上映でした。
そして、ここから12年というインターバルを経て登場したのが、2016年の「シン・ゴジラ」です。
監督は庵野秀明。
この作品から、ゴジラ特撮は、着ぐるみのアナログ撮影を卒業し、完全CG化されることになります。
庵野監督は、ちょうど僕と同じ世代ですので、ほとんど同じゴジラ体験をしてきているはず。
かつての怪獣オタク世代が、クリエイターになって放つゴジラは、正直言ってゴジラからは気持ちが離れていたかつてのファンも完全に引き戻した感があります。
もちろん、エヴァンゲリオンで名を馳せた庵野監督ですから、アニメオタク世代もファンに引き込んでおり、ゴジラのファン層は一気に拡大したといっていいでしょう。
ゴジラ・シリーズは、完全に新しいフェーズに入ったことを印象付けましたね。
ハリウッドの特撮映画では見慣れているものの、やはりデジタル技術を駆使した破壊シーンは、円谷プロのお家芸だったミニチュア・ワークを完全に過去のものにしてしまいました。
もう怪獣特撮は、着ぐるみには戻れないことを決定づけた作品でもあります。
ちなみに、山崎監督の話によれば、VFXの特撮でも、ミニチュアを使うことは実はまだ多いとのこと。
フルCGで再現したシーンよりも、ところどころにアナログのミニチュアの質感が混じった合成の方が、よりリアル度が増すのだそうです。
さて、東宝作品ではないということで飛ばしてしまいましたが、ゴジラ・シリーズはハリウッドでも作られています。
根強いゴジラ・ファンは、実はアメリカにも相当数いるんですね。
1998年に、ローランド・エメリッヒが監督したのが「Godzilla」です。
この作品のゴジラは、かなり爬虫類に寄ったモンスターになっていて、東宝特撮ゴジラが刷り込まれている日本のファンの評判はあまりよくなかったようです。
その後、2014年になって作られたのが、ギャレス・エドワード監督の「GODZILLA ゴジラ」。
エメリッヒ監督によるゴジラが、「エメゴジ」と呼ばれるのに対し、2014年以降のゴジラは、レジェンダリー・ピクちゃー社が製作しているので「レジェゴジ」と呼ばれるのが一般的です。
ここから、ハリウッド製のゴジラは、2024年公開の最新作まで、4本が作られることになりますが、これはまだ見ていません。
もちろん、VFXの本場ハリウッド製の、ゴジラはもちろんすべてフルCGです。
〇 「シン・ゴジラ」との差別化
・・・といわけで、ここ二週間で一気に鑑賞した、東宝ゴジラ・シリーズ未見の50年分の歴史をざっくりとなぞったところで、やっと本題に入りましょう。
本作は、「シン・ゴジラ」以来、7年ぶりのゴジラ映画となりました。
山崎監督は、東宝から新作ゴジラの監督依頼を受けたときに、前作の庵野監督による「シン・ゴジラ」をかなり意識したと語っています。
「シン・ゴジラ」の出来の良さに感服し、同じ土俵でゴジラ映画を作っては勝ち目はないと思ったそうです。
そこで、山崎監督が考えたことは、自分の土俵にゴジラを連れてきて、物語としては、すべて「シン・ゴジラ」の真逆をやるということ。
庵野監督は、ロボット・アニメで頂点を極めた未来志向のクリエイターでした。
反対に、山崎監督といえば、「三丁目の夕日」や「永遠の0」のように、人間ドラマの延長でCGを駆使して、過去の世界を蘇らせることを得意とする監督です。
つまり、山崎監督のいう「自分の土俵」というのが、ゴジラ史上初めて、時代設定を初代ゴジラ登場以前にすること。
そして、山崎監督がピンポイントに狙いを定めた舞台が、1947年(昭和22年)でした。
初代ゴジラが東京を蹂躙する7年前、太平洋戦争が終わって2年後という、まだまだ戦争の爪痕残る東京を舞台にする構想です。
このアイデアを、重役たちが居並ぶ東宝の会議室で山崎監督が披露したとき、会議室にはどよめきが起こったそうです。
東宝の過去の怪獣映画の舞台になっているのは、すべて映画が作られた同時代か、ちょっと先の近未来と相場が決まっていました。
いわば、これはゴジラ映画を製作する上での、暗黙の不文律になっていたわけです。
この山崎監督の過去に例のなかったコンセプトに、東宝首脳陣もあわてたというところだったのでしょう。
しかし、山崎監督としても、絶対に比較される運命にある前作「シン・ゴジラ」に挑むという意味では必死です。
そして、その物語の骨子は考えられる限り、前作の真逆でやってやろうというわけです。
まず前作は、実際にゴジラが東京を襲来したら、日本の政府はどう対応するかを徹底的にリアルに描いた官僚や政治家を中心にした群像劇でした。
これを踏まえたうえで、本作では、政府やGHQは、当時のソ連を含む国際情勢の観点からゴジラ駆除には関われないという状況にして、民間人が主導となりゴジラに立ち向かうという設定にしています。
前作が「官」なら、こちらは「民」にしようというわけです。
「シン・ゴジラ」では、ゴジラは陸に上がって徹底的に東京を蹂躙しました。
これを踏まえ上で、本作では、海をゴジラとの主戦場に設定します。
映画の中で、ゴジラは陸に上がって銀座を破壊するシーンもありますが、ゴジラが登場して木造船新生丸を襲うシーンも、決戦場となる相模湾沖も舞台は海です。
向こうが「陸」なら、こちらは「海」。
そして、「シン・ゴジラ」ではあえて意図的に排除された人間ドラマを、物語の中心に据えています。
これは、過去作品で、コテコテの人情劇の脚本を書いてきた山崎監督の得意分野で、言ってしまえばロボット・アニメ畑を歩んできた庵野監督の不得意な分野でもありました。
勝機があるとすれば、ここしかないと思ったのでしょう。
山崎監督は、過去作品のほとんどで、監督・脚本・VFXのすべてを一人でこなしています。
過去の特撮映画の多くは、監督はドラマ部分を担当し、特撮部分は特技監督が担当するシステムでした。
もちろん、脚本家も別に存在します。
ドラマ撮影と特撮パートも別々に行われているので、双方を同時にこなすことは物理的に不可能だったわけです。
「シン・ゴジラ」も、事実上は総監督の庵野秀明と、監督の樋口真嗣の二人体制。
しかし、このすべてを一人の監督が行うことで、人間ドラマと特撮部分の融合が、過去作にはないレベルで親密に図られるようになるわけです。
つまり、これを1人でやることによって、撮影の状況に合わせながら、脚本を臨機大変に変更して行くことが可能になるわけです。
本作においては、VFXスタッフで、海のデジタル処理技術に見るものがあるとわかれば、海のシーンを増やしてみたり、子役の2歳の女の子に見るものがあるとわかれば、男の子の設定を女の子に変えたりということは、脚本も担当する山崎監督の頭の中では一瞬にして自由に設定変更がきくわけです。
これは、大プロジェクトで映画を製作する、ハリウッドの超大作チームではなかなか出来ないことかもしれません。
山崎監督の脚本はかなりベタでクサいという評判もありますが、個人的には本作のような「特別すぎる状況」の中のドラマでは、むしろそれが幸いしている気がしました。
これくらいのベタさがちょうどいいくらいだと感じた次第。
いくら人間ドラマ重視といっても、さすがにゴジラはホームドラマにはなりません。
ゴジラが銀座を蹂躙した後、愛する典子を奪われた主人公敷島が、瓦礫の中に立って「うわーーーっ」と叫ぶシーンがありますが、この神木君の大芝居も、本作の中ではほとんど違和感はありませんでしたね。
とにもかくにも、「シン・ゴジラ」とは、真逆のアプローチをして対抗しようとした山崎監督の選択は、結果的には、すべてにおいてどんぴしゃりとハマり、本作を前作以上の傑作に押し上げたわけです。
〇 オリジナル「ゴジラ」へのリスペクト
山崎監督が、本作を作るにあたって「シン・ゴジラ」と同様に、もっとも意識していたのが、シリーズの原点ともいえる1954年の「ゴジラ」です。
ゴジラ・シリーズは、これ以降次第に怪獣バトル映画にシフトしていき、正義の味方から、やがて子供のヒーローへと変遷していく過程の中で、映画の原点でもあった恐怖性を失っていきます。
そして、シリーズが復活するたびに、原点回帰が行われ、怖いゴジラが復活するという歴史を繰り返してきました。
ファンたちは、怖いゴジラを求めている。
これを、一人のゴジラ・ファンとして敏感に感じ取っていた山崎監督は、本作においては徹底的にこれを追及しています。
どうすれば、怖いゴジラを表現できるか。
その解として、本作において、山崎監督が心がけたことが、徹底的に人間とゴジラの距離を縮めるということでした。
そして、これこそが着ぐるみでは不可能で、VFXが最も得意とするところだったわけです。
ゴジラが、昼間の銀座を破壊するシーンの圧倒的な臨場感は、過去作品には類がありません。
とにかく、ゴジラが近い!
第1作のゴジラが製作された当時の技術では、この臨場感を出すことは不可能だったので、夜の闇の中で、黒いゴジラを暴れさせることで、観客に起こっていることを想像させ、恐怖を煽っていました。
しかし、山崎監督は、観客は、これをリアルな画像で、直接見せられることを何よりも望んでいるということを熟知していました。
そして、その見せ方も憎いくらいに心得ていますね。
有楽町の日劇ビルの向こうから、ゴジラが初めてその全体像をヌーッと見せるところで、ここぞとばかりかかるあの重低音を効かせたあの伊福部昭のテーマ曲。
映画のクライマックス。駆逐艦ゆきかぜの艦長の、「海神作戦を開始する」というセリフの直後、海を進む2隻の駆逐艦の絵に合わせてかかる「怪獣大戦争マーチ」。
あれをやられては、オールド・ファンはたまりません。
逃げ惑うエキストラは、ゴジラ映画のお約束シーンではありますが、本作に限ってはこれがエキストラには見えません。
みんな当時の時代考証を経た衣装を着て演じているので、いっぱしの役者に見えてしまいます。
エキストラの中に混じって、ノン・クレジットで俳優の橋爪功がワンカットだけ出演していましたが、完全に周囲のエキストラと同化していました。
あんなに近くまでゴジラの足跡が迫っていたら、絶対に踏んづけられてるとわかるのですが、山崎監督の上手いところは、その後のつぶれて破損したはずの死体までは映していません。
ゴジラに追いかけられる人たちの恐怖までは描きますが、グロテスクな死体までは描かないことは徹底していて、これはおそらく、親子で映画館に来られる映画を意識していたからでしょう。
映画冒頭の大戸島で、整備兵たちが、核爆弾で変体する前のゴジラに襲われるシーンがありますが、ここでも、スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」のように、モンスターが人間にかぶりつくシーンはあるのですが、それはそのまま放り投げられるだけで、決して食いちぎられるシーンにはなっていません。
このあたりは、山崎監督が、国際標準を意識した演出だと、解説動画で岡田斗司夫氏が熱弁していました。
山崎監督は、はじめからアカデミー賞まで見据えていた気がします。
いずれにしても、山崎監督が本作で描きたかった核心は「ゴジラへの恐怖」であって、決して陳腐なショック映画ではなかったということでしょう。
初代ゴジラに対する監督のオマージュは、いたるところで感じられました。
もっとも顕著だったのは、電車にかぶりついて、咥えるというシーン。
1954年版ゴジラでは、映画のアイコンにもなっているような印象的なシーンでしたが、本作では、その電車の中に、ヒロインの典子を乗せて、より観客の感情移入を図っています。
そして、高架線の横の日劇の屋上から、そのゴジラの様子を超近距離で実況中継をしているテレビ・クルーたちのシーンです。
その彼らがゴジラに襲われるのも、初代ゴジラと同じ。
初代ゴジラでは、アナウンサーはテレビ塔から中継していて、最後は「みなさん。さようなら。」と実況していたのを思い出します。
海神作戦において、海中に流すゴジラの咆哮は、このクルーが録音したものと言う設定になっていました。
ラストの最終決戦の場が海であるということも、本作は第1作目のゴジラを踏襲しています。
第1作では、芹沢博士が発明したオキシジェン・デストロイヤーという強力な化学兵器で、ゴジラを深海で溶かすというラストが描かれていましたが、本作において吉岡秀隆演じる野田博士が考案したのは海神(わだつみ)作戦です。
これは、フロンガスのボンベを仕掛けたワイヤーをゴジラに巻き付け、それを爆発させて発生させた泡で、ゴジラを日本海溝の深海に沈め、その圧力でゴジラを葬ろうというもの。
本作においては兵器こそ使用していませんが、深海でゴジラがもがいているというクライマックス・シーンの絵面はオリジナル・ゴジラのラストに酷似しています。
但しこれは、山崎監督自身もまるで意識していなかったようで、後のインタビューで質問されて、はじめて本人自身もそのことに気が付いたとのこと。
本作で初代ゴジラを意識して作っていたことからこそ生まれた偶然の産物だったようです。
〇 アカデミー賞視聴覚効果賞受賞
海神作戦については、それが可能かどうかを、集まった元海軍有志達の前で、野田博士が実際に実験して見せる場面があります。
用意したゴジラの模型の周りで、実際に少量のフロンガスを発生させ、沈めてみせるという実験です。
これは、僕のような物理素人なら、泡を発生させたら、その浮力で反対に浮いてしまうのではないかという先入観を持っている観客に、ラストで何が起こるかを視覚的に想像させるという意味では効果的でした。
山崎監督は、このアイデアを「タイタニック」から頂いたといっていました。
確かにあの映画には、巨大客船が沈没するときには、どういう過程を経て沈没していくかを、観客にあらかじめ説明しておくというシーンがさりげなく描かれていました。
優れたサスペンス映画には、起こることをさりげなく観客に事前に伝えておくというシーンを、上手に盛り込んでいるものです。
1970年のパニック映画の「大空港」では、飛んでいる飛行機の機体の一部に穴が開いたらどういうことになるのかということが事件とは関係ないシーンであらかじめ説明されるシーンがありましたし、1952年の「恐怖の報酬」では、ニトログリセリンを少量爆発させるシーンをあらかじめみせておくことで、トラックの荷台に満載のニトログリセリンが爆発したらどういうことになるのかを観客に想像させ、その恐怖心をあおることで、極上のサスペンスを醸成していました。
いい監督というのは、過去作からしっかり学習しているものです。
山崎監督は、1978年に作られたスティーヴン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」をみて、そのVFXに感動し、それが特技監督への道を志したきっかけになったとインタビューで答えていました。
高校時代には、UFOが近くの森に不時着するという8ミリ映画を作って、女子たちから一目置かれる存在になったという経験が忘れられなかったとも語っています。
その山崎監督が、VFX専門の白組という会社に入社して、こつこつと特撮技術を磨いていき、2000年に「ジュブナイル」という作品で念願の監督デビューをすることになるわけです。
以来、VFXを活かした数々のヒット作を生み出して、売れっ子監督となり、その総決算として本作に挑むことになります。
そして、この作品は、アメリカでも興行的な成功をおさめ、本年3月に行われたアカデミー賞では、アジア映画としてははじめて、視聴覚効果賞を受賞をします。
この時同賞にノミネートされていたのは、『ナポレオン』、『ザ・クリエイター/創造者』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』、『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』
ほとんどが本作とは比べ物にならない製作費をつぎ込んだ超大作ばかりです。
この並みいる強豪をおさえての受賞は、あっぱれというよりありません。
製作費は少なくても、創意と工夫で、ハリウッド大作に引けを取らない作品は作れる。
これを証明してくれただけでも、本作の意義は大きいですね。
日本映画の低迷がいわれていただけに、まさに溜飲が下がる思いです。
ノミネートされるだけでも凄いことなのに、受賞までしてしまうわけですから拍手喝采です。
ハリウッドの超大作でも、本作「ゴジラ-1.0」でも、ワンカットにかけるVFXコスト自体や労力そのものはそれほど変わらないのだそうです。
では、日本とハリウッドの、桁違いの製作費の違いはどこにあるのか。
実は、ハリウッド・スタイルでは、同じシーンに対して、プレビズや絵コンテがいくつも作られて、様々なカットが同時進行で複数作られるシステムになっているのだそうです。
それゆえに、製作費は何倍にも膨れ上がるという理屈です。
もちろん、出来上がってきた複数のカットのうち、どれを使用するのかは、監督もしくはプロデューサーの権限です。
つまり、どれかが採用されるということは、当然同時にそれ以外のすべてのカットは没にされということ。
映画制作会社は、観客に受け入れられる作品をつくるために、ワンシーンに対して、それくらいの保険をかけて、作っているというわけです。
このシステムをとっているので、絶対に失敗することが許されないハリウッドの超大作は、ある程度の水準はキープ出来る仕組みになっているわけです。
しかし、これを実際にVFXに携わるスタッフの身になって考えてみます。
もしかしたら、没にされる可能性もあるカットに、果たしてどれだけのモチベーションを注げるものか。
確かに収入は保証はされているのでしょうが、結局は映画には使われないカットを作るという徒労感はどれほどのものか。
超大作になる傾向のあるVFX作品に携わるスタッフたちの多くが、このストレスを抱えていると思われます。
これに対して、日本のVFXには、幸か不幸かそれほどの潤沢な予算はかけられていません。
たくさん作って、その中からいいものを選ぶという作り方は、逆立ちしてもできないわけです。
従って、シーンにおけるカットは、監督やスタッフが厳選をした「必ず本編で使用される」カットになり、VFXスタッフたちは、そのデジタル加工に集中して渾身のスキルを注ぐわけです。
モチベーションだけを考えれば、どちらが高くなるかは明白です。
こうして作られた「ゴジラ-1.0」が、その他のノミネート作品と比べて、作品として何の遜色もなかったという現実を突きつけられた時に、ハリウッドのVFXスタッフたちは、「自分たちのやり方は、もしかしたら間違いではなかったか」と心の声を上げた気がします。
潤沢な製作費を背景にして、失敗はしないというリスクヘッジに重きを置いた映画作りより、低予算の中でも、監督がこれしかないというカットに、スタッフ一同が全心血をそいで作るカットの方が、結果的に映画的クゥオリティが勝っている。
今回の本作のアカデミー賞視聴覚効果賞受賞の背景には、ハリウッドVFX界が、そんな反省を自覚した思いがあったような気がします。
考えてみれば、弱小日本映画界のVFXスタッフが、巨大なハリウッド映画界に挑んで、結果勝利を収めたという構図そのものが、本作のストーリーと見事に重なります。
すべてが破壊されてなにもない状態の日本に現れたゴジラに対して、国からも見放された人たちが、微力ながらも、創意工夫を凝らして、日本の未来のために、この怪物に挑んでいくというこの映画の物語展開は、そのまま、日本映画「ゴジラ-1.0」が、アメリカ映画界に挑戦するという物語とシンクロしています。
〇ゴジラ映画と核問題
さて、ゴジラ映画といえば避けて通れないのが、核爆弾との因果関係です。
第1作のこの重いテーマを踏襲して、過去のゴジラ映画は、何らかの形で核兵器とゴジラの因果関係には触れるのが暗黙のルールになってきました。
第1作のゴジラは、 1954 年 3 月 1 日にマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした太古の恐竜がゴジラになったという設定でした。
第五福竜丸がこの実験の際の放射能を浴びた死の灰を浴び、この事件がそのまま映画にも取り入れられていました。
しかし、アメリカで上映されたゴジラは、こういうアメリカにとって不都合な真実は、バッサリとカットされ、人間ドラマパートは、アメリカ人俳優のものと入れ替えら「怪獣王ゴジラ」として公開されています。
本作の時代設定は、1947年ですからまだビキニ環礁における水爆実験は行われていません。
なので、1946年夏に実施されたクロスロード作戦という原爆実験において、近海にいたゴジラが被ばくして、細胞が覚醒し暴走したという設定になっています。
映画の中では、これを否定的に扱うような俳優たちの直接的なセリフは特になく、クロスロード作戦の原爆実験のカットと、ゴジラの細胞が覚醒するカットが短くあるのみ。
無視するわけにはいかないけれども、深く追及はしないという扱いになっていました。
従って、本作のゴジラは、従来の水爆怪獣ではなく、原爆怪獣ということになるわけです。
やはりここも、アメリカ公開を視野に入れていた山崎監督の配慮と思われます。
今年のアカデミー賞作品賞を獲得したのは、奇しくも、クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」でした。
山崎監督は、いつか日本人として、この作品に対するアンサー映画を作ってみたいとインタビューで語っていましたが、それが果たしてゴジラ映画の続編になるのかどうかは不明。
しかし、これはちょっと気になるところです。
これまでのゴジラ作品においても、核開発への警鐘は、アメリカの罪というよりは、人類そのものの罪として描かれていることが多かったと思います。
この点、日本人は被害者であるにもかかわらず、非常に奥ゆかしい。
なにか声を大にして訴えるという文化を日本人は基本的に持っていないんですね。
そして、とても不得手です。
これはまったく個人的な見解ですか、それよりは、いつかアメリカが正面を切って、ゴジラと核の問題を映画の中で取り上げてくれることを期待したいところです。
今回の、「ゴジラ-1.0」への海外の反応を聞いていると、日本映画の存在感が、アメリカの中で上がっていけば、いつかそんなことも可能になるのではと思ってしまいます。
ゴジラがその為の架け橋になってくれればうれしい限りです。
視聴覚効果賞受賞のときの、山崎監督の英語のスピーチには笑ってしまいましたが、会場は「頑張れ」と言う暖かい空気感に包まれていました。
あのスピーチで伝わったのは、その内容よりは、山崎監督の人間性そのものだったと思います。
〇 本作のオリジナリティ
さて、今回の「ゴジラ-1.0」には、いままでのゴジラ映画にはない、驚愕のシーンがいくつもありました。
まず、敷島たちが乗り込んだ新生丸が、海上ではじめて巨大化してさらに凶暴になったゴジラと対峙するシーンですね。これは迫力満点でした。
海のゴジラというと、1966年の「ゴジラ・モスラ・エビラ 南海の大決闘」を思い出してしまいましたが、これまでの着ぐるみミニチュア・ワークでは、どうしても超えられなかった特撮水中撮影の限界をなんなくクリアしてくれたことですね。
それは、水飛沫の表現です。
ミニチュア撮影の最大の鬼門は、昔から、水と火でした。
建物のセットや車の寸法はいくらでも変えられるのですが、変えられないのは、水飛沫と火炎です。
ハイスピード撮影で、動きの重量感は伝えられるのですが、その寸法までは変えられません。
特に水飛沫一粒の大きさは、その寸法を日常でも把握しているので、水飛沫が飛び散るような怪獣同士の海での戦いでは、どうしても着ぐるみ感がにじみ出てしまいます。
その点、今回のゴジラは完璧でした。
ゴジラの寸法と、その周囲の水の動きと、水飛沫の寸法がしっくりと合っていて違和感なし。
この辺りがフルCGの威力です。
山崎監督によれば、実はこの水飛沫の合成が一番手間がかかり、データサイズも尋常ではない大きさになるのだといっていました。
しかしその努力は、見事にこのシーンの迫力となって、結実していました。
そして、ゴジラが水面を泳ぎながら、口を開けて、木造船新生丸を追いかけてくるというのも今までにありそうでなかったカットで興奮しました。
ゴジラが口にくわえた機雷を、機銃で爆発させるシーンなどは、よく考えればジョーズのアイデアだったなと気が付きますが、その爆発で破壊された上顎が、見る見る再生されていくというシーンは、これまでのゴジラ映画ではなかった本作オリジナルのアイデアで唸りました。
陸のゴジラも怖いけれども、海のゴジラもかなり怖い!
ここで見せた異常なまでの自己再生能力は、ラストへの伏線にもなっています。
そして、救助に現れた重巡洋艦高雄に襲い掛かり、最後は海底からのアトミック・ブレス(YouTube界隈ではゴジラの熱線放射をこう呼んでいました)で木っ端微塵に破壊して海底へと去っていきます。
ゴジラの脅威があることを、政府は国民に通知しません。
混乱を恐れての情報統制。そして隠ぺい体質。
戦時中の大本営を想定してのシナリオですが、これは確実に現在の我が国の政府も痛烈に皮肉っています。
ゆえに、真昼の銀座に現れたゴジラの足元にはまだたくさんの人たちがいます。
何も知らずに、東京駅を出発した国電は、有楽町日劇前で、ゴジラにつかまります。
その電車の中にいた典子は、川に飛び降りて助かりますが、フラフラになっているところを、再びゴジラに追われることに。
銀座に典子がいることを知っている敷島が助けに来ますが、敷島の見ている目の前で、典子はアトミックブレスによる爆風で吹き飛ばされてしまいます。
ゴジラの尻尾から、光ながら背びれが立ち上がっていき、チャージアップされていくビジュアルも、ゴジラ映画では初めて見るもので、しびれました。
そして、その直後放たれるアトミック・ブレスの凄まじさは、過去のゴジラ映画の中では、最大級の破壊力でした。
その一撃が明らかに、核爆発をほうふつさせるようなビジュアルになっていることは一目瞭然。
破壊された大地には、きのこ雲が立ち上がり、強烈な爆風が襲い、直後には黒い雨が降り注ぎます。
ゴジラが去った、その後の銀座では、ガイガーカウンターがけたたましく鳴り渡り、ゴジラの肉片が飛び散っていることが、ニュースで報道されます。放射能とゴジラの肉片で汚染されてしまった銀座。
そして、これがまたラストへの伏線となります。
セリフとして言及されることはないのですが、これほど明確に、ゴジラの脅威に、核へのメッセージを被せたビジュアルは、これまでのゴジラ映画にはありませんでした。
下手な教訓的な説教は一切排して、ビジュアルのみで、核の脅威を訴える。
映像派の山崎監督渾身のVFXでしたね。
大きなマーケットでもあるアメリカ配給を見据えながらも、ゴジラ映画の監督として、やるべきことはきちんとやっているという山崎監督のスタンスはなかなかしたたかしたたかです。
〇ネタバレ全開で語るラクライマックス(未見の方要注意)
クライマックスの海神作戦は、物資が乏しい終戦直後の設定ですから、当然のことながら、過去のゴジラ映画の中でもっとも心もとない作戦になっています。
日本海溝深海の強力な水圧で、ゴジラを圧死させようというわけですから、過去のゴジラには鼻で笑われそうな気もします。
AI に、フロンガスの泡で2万トンもの怪獣が海底に沈んでいくかも含めて、その有効性を聞いてみましたが、否定まではしないものの、かなり怪しいという回答でした。
しかし、野暮なことは言いますまい。
クライマックスは、畳みかけるような展開で、この作戦を十分に楽しませてもらいました。
加えて、作戦に参加させてもらえなかった小僧水島が、近くのタグボート仲間を集めて、ここぞというタイミングで助っ人に来る展開は、文句なくこちらのエモーションをアゲアゲにさせてくれる王道の展開。
スター・ウォーズ大好きな、山崎監督なら、当然これくらいのことは仕掛けてくるでしょう。
物語に引き込まれていると、どんなにベタであろうと、こんな展開にも見事にやられてしまいます。
そして、タグボート協力のもと再び引き上げられたゴジラの皮膚は、その急激な水圧変化のために、ボロボロに破壊されています。
そしてとどめは、敷島の局地戦闘機震電での、ゴジラの口めがけてのアタック。
その一撃を食って、ゴジラは、崩壊しながら、海の底へ沈んでいきます。
過去作のゴジラが、最後は海に向かって去ってゆくという、何も解決していないラストが多かったので、これほど、明確にゴジラの最後をビジュアル化したラストは、第1作目のゴジラ以来でしょう。
(ちょっと記憶にない)
なかなか新鮮でした。
そしてあの敬礼ですね。
あの敬礼の意味を、あーだこうだと考察するつもりはありません。
それは観客が思ったそれぞれで構わないでしょう。
ただあそこには、戦った相手に対する素直な敬意があることだけは間違いありません。
それが意表をつく相手であればあるほど、エモーションが大きいと言うこと。
「八甲田山」における、秋吉久美子演じる道案内に対する、高倉健の隊全員による「かしら右!」を思い出しました。個人的にはこれに非常に弱い。いいシーンでした。
敷島が震電の整備を、大戸島整備隊の橘に依頼するくだりも泣かせます。
彼の部下たちを、自分が死なせてしまったという大きなトラウマが敷島にあるからです。
特攻を決意している敷島に、橘は整備の終わった震電の説明をします。
彼が示した安全レバーの下には、ドイツ語のステッカー。
これは、ナチス・ドイツが開発していた世界初の自推式脱出装置を示すものでした。
これが読める人のみラストが予測できるという憎い演出。
映画では、ゴジラ・アタック直後、パラシュートで降下する敷島を見せながら、この装置の説明をした橘が敷島にこういうセリフがカットインされます。
「生きろ!」
まあ、山崎監督、これでもかとやってくれます。いいんです。ベタでも。
とにかく、起承転結のある人間ドラマで、きちんと泣かせてくれるゴジラ映画なんて、過去にはありませんでした。
ゴジラを駆除して戻った港で、爆風で飛ばされた典子が実は生きていると知らされた敷島は娘の明子を抱いて病院へ。顔の右半分と、右手を包帯で覆われた典子と再会を果たします。
しかし、単純なハッピーエンドにしたくはなかったという山崎監督は、ここでひとつ仕掛けてきます。
典子の首筋に黒いあざがムクムクとなにか生き物のように這い上がってくるのを見せるんてすね。
これがゴジラの細胞であることが、勘のいいいい人にはわかるという仕掛け。
ゴジラの破壊した銀座の瓦礫には、ゴジラの肉片が飛び散っていたという伏線がここで回収さるわけです。
そして映画本編の最終カットは、相模湾の海底で再び再生されつつあるゴジラの破壊された肉片のアップです。
〇山崎監督への期待と不安
これは、次回作のための伏線だと、山崎監督は、インタビューで堂々と明言しています。
本人は、本作の大ヒットにより、次回作もやる気満々であることは明白ですね。
そして、次回作は、怪獣対決モノにせざるを得ないと山崎監督はコメントしていました。
もちろん、山崎監督がゴジラの次回作を作ることには大いに期待するところですが、正直申して、本作以上のゴジラ映画が作られるのだろうかと思うと、ちょっと首をかしげてしまいます。
それくらい、今回の「ゴジラ-1.0」は、よく出来ていました。
山崎監督の選択がすべていい方に転がって出来た奇跡のような映画だった気がするわけです。
彼が次回作を作るにあたって、再び本作の真逆を設定で作るのだとしたら、庵野監督の「シン・ゴジラ」に戻ってしまうわけですし、さらに時代をさかのぼれば、ゴジラ時代劇となってしまうわけで、はたして成功するかどうか。
これはなかなか悩ましいところです。
いずれにしても、世界に通じるエンターテイメント映画を作った山崎監督は、ハリウッドでの監督作品も視野に入れているようです。
スティーブン・スピルバーグ監督とも、映画製作の話をしているという話も聞こえてきます。
もしかしたら、山崎貴監督が、スター・ウォーズ新作の監督に抜擢されるなんてこともなきにしもあらず。
期待が膨らみます。
但し、今回あれだけ少ない予算で、ハリウッド大作に引けを取らない作品を完成させたことをアカデミー賞で評価された山崎監督が、はたしてハリウッド級の製作費で映画を任されたとして、彼の能力がどれほど発揮されるのかは未知数です。
とにかく本作において、山崎監督が、日本映画のレベルを底上げしてくれたのは間違いのないところ。
そんなわけですから、取り合えず今は、次回作の心配をするよりも、本作の出来を素直に絶賛しておくことにしましょう。
「ゴジラ-1.0」は、間違いなく怪獣映画としては日本だけでなく、世界で頂点を極めた作品であります。
見終わった直後、すぐに「ゴジラ-1.0/C」も鑑賞してみました。
モノクロ映像で改めて本作を見直してみると、もしかしたら、怪獣映画としてではなく、日本映画としても頂点を極めた作品ではなかったかという気になってきましたね。
映画全盛時代だった、1950年代の名匠たちによる日本映画の香りがプンプンとしてきました。
この映画は、間違いなくモノクロ画像と相性がよろしい。
とにかく、これほど見応えのある映画を作ってくれたことには、心より感謝申し上げます。
限られた予算の中で、これだけの作品を完成させるということは、映画監督としては、ある意味で戦争みたいなものだったかもしれません。
是非、本作のヒロイン浜辺美波嬢にこう言ってもらってください。
「監督にとっての戦争は終わりましたか?」
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?