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読書「Xの悲劇」エラリー・クイーン

この文庫本は、昔から我が家にあった一冊です。
おそらく父か母が読んだものだと思われます。
新潮文庫で、初版発行が1958年。
1983年の41刷となっていますので、その時点で読まれたのでしょう。
大久保康雄氏の翻訳も、今の感覚でいえば、やや時代を感じさせるものではありましたが、それはそれで古典ミステリーの雰囲気醸成には貢献していますのでクラシック好きとしてはあまり気になりません。
本格推理小説全盛の時代の、傑作ミステリーを楽しませてもらいました。

本書が世に出たのは1932年といいますから今から92年前。
舞台となっているのは、ニューヨーク近郊です。
アメリカは、狂乱の1920年代という大繁栄の時代を経て、1929年の大恐慌で一気に奈落の底に沈みました。
そして、その傷跡も残っていたのが、ちょうど1932年頃です。
かつて活気に満ち溢れていた街並みは、失業者であふれ、希望を失った人々の顔でどんよりとしています。
通りには、路面電車が音を立てて走り去り、乗り込む人々は、厚手のコートに身を包み、うつむき加減で新聞を読んでいます。
車窓から見えるのは、荒廃した街並みと、失業者のための炊き出しを行列。
5番街の高級店は、かつての華やかさを失い、シャッターを下ろしている店も少なくありません。
セントラルパークでは、段ボール箱を住処にしているホームレスの人々。
夜の帳が下り、街はネオンライトに照らし出されます。
ジャズクラブからは、賑やかな音楽と歌声が聞こえてきます。
しかし、次第に活気を取り戻しつつある街の交通機関は、24時間フル稼働。

こういう風景の描写は本書内にはありませんが、イメージとして脳内には仕込んでおきました。
ビジュアルの参考にしたのは、1930年代のハリウッド製のモノクロギャング映画。
とにかく、古典ミステリーを楽しむには、身も心もその時代の雰囲気に自分を放り込むのが一番。
下手に現代目線になってしまうと、楽しめるものも楽しめません。
登場人物は、間違ってもスマホは持っていませんし、インターネットもありません。

さて本作を執筆した作家は、今でこそエラリー・クイーンということになっていますが、1932年に発表された当時はバーナビー・ロス名義でした。
エラリー・クイーンが、フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーという二人の共同執筆名だというのは有名な話です。
そのエラリー・クイーンが、さらに同じコンビで、別の名義を使うというのですから話はちとややこしい。

なんで、こんなことを試みたのか?

推理作家の大御所たちの間では、別名義で小説を発表するという例は結構ありましたが、このお二人の場合は、思い付いた仰天トリックのアイデアを活かすための伏線として、この別名義を使おうという魂胆だったようです。

ですから、出版社にもかん口令を敷いて、エラリー・クイーンの二人は徹底的にこの秘密は守抜きました。
それでも、するどいファンの間からは、実はこの二人は同一作家なのではないかという噂が立ち始めます。
すると二人はなんと覆面をしたまま、同じステージに上がり、お互いの作品について討論会をして見せるというパフォーマンスまで披露。
二人一役の作家だからこそ出来た芸当ですが、二人は、そんな風にして、この秘密を実に9年間も守り続けます。

二人が思いついた仰天トリックについては、Wiki などにはもうしっかり書かれてしまっていますが、本ブログではミステリー・レビューのエチケットとして、そこはあえて伏せておきます。
但し、これだけは申し上げておきましょう。

二人は、その仰天トリックのための伏線として、3作の本格ミステリーを、バーナビー・ロス名義で発表します。
この三作すべてに登場するのが、引退した舞台俳優で、聴力を失った老探偵ドルリー・レーンです。
この強烈な個性の名探偵を、この三作を通じてミステリー界隈に広く認知させたうえで、最終作で驚きのトリックを仕掛けようというわけです。

作者としては、この前代未聞のトリックを駆使した最終作で世間の評価は最大化すると踏んでいたのですが、この目論見は完全に当てが外れました。
本来であるなら伏線となるべき三作があまりに傑作過ぎたんですね。

「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」の三作です。

特に前二作は、執筆から100年近くがたった今でも、本格ミステリーの金字塔、エラリー・クイーンの最高傑作としてミステリー・ファンの間で語り継がれるマスターピースになっています。
三作を発表して、満を持して発表した「ドルリー・レーン最後の事件」は、彼らが考案した前代未聞のトリックを盛り込んだにもかかわらず、世間の評価はいまいち。
そのトリックを仕掛けるには、名探偵ドルリー・レーンの人気が、前三作であまりにも定着しすぎてしまったんですね。
二人の思惑は完全にはずれてしまいました。

とまあ、偉そうな蘊蓄を語ってはいますが、個人的に僕が読了しているのは本作のみです。
バーナビー・ロス名義に関する事は、本書の解説から引用いたしました
なにせ100年も前の作品ですから、本作を読む前に事前情報だけがやたらと膨らんでしまっており、かなり頭でっかち状態になっていたことは事実でした。
古典ミステリーあるあるです。
しかしかろうじて、ネタバレの洗礼だけは受けずに来られたのは幸いでした。
ちなみに古典ミステリー紹介が、Wiki で完全ネタバレになっているのも、古典ミステリーあるあるの典型例ですので、これから古典ミステリーを読まれるという方は是非とも注意されたし。

さて、ドルリー・レーン初登場となったのが本作「Xの悲劇」です。
エラリー・クイーン作品としては、最高傑作の誉れ高い「Yの悲劇」にも一瞬手がかかりかけましたが、いやここはせっかくあるのだから順番通りにいこうと思い直し、iPad の中で、ずっと眠っていた本書を開くことした次第。

事件は、まずニューヨークの市街を走る満員の市電の中で発生します。
凶器は、毒薬を塗った針を数十本も刺したコルク玉。
これを仕込まれたポケットに手を突っこみ満員の電車の中で絶命する第一の被害者は証券業者の男。
上手いと思ったのは、この電車の中に、容疑者を全員乗せていたことです。
男の婚約発表をした事務所から、パーティ会場の男の自宅まで、全員が市電で移動するという設定です。
男はかなり鼻持ちならないキャラで、相当に周囲からは疎まれており、その場にいた全員が実は怪しいというわけです。
その上、電車は満員ですから、被害者のポケットに凶器を入れるチャンスは、それ以外の乗客にもあったということになります。
読者は、物語の冒頭から、殺人現場の目撃者になるわけです。

そして、第二の殺人が起こったのは、ハドソン川を往来する渡船場。
市電の中の殺人を見たという人物からの通報で呼び出され、待ち合わせ場所にいった警察ご一行の前で、第一の殺人事件の起こった市電の車掌が、船と岸壁の間に落とされ圧死させられます。

車掌と事件の関係は?

そして、第三の殺人の被害者は、第一の殺人で最も怪しまれていた、証券業者の共同経営者。
この男は、第一の殺人同様、ほかの容疑者たちも乗っている列車(地下鉄?)の中で、射殺されます。

3つの殺人が、すべて当時のニューヨークの交通機関の中であるというところが、本作の最も大きな特徴といえるでしょう。
そしてこれが物語の大きな伏線となります。

さて、ここで少々、僕の海外ミステリー読書術を紹介します。
海外ミステリーを読む時には、たいていは本の冒頭にある登場人物の一覧表をA4の用紙一枚に書き出してプリントアウトしておきます。
導入部では、次々と登場する人物名がなかなか覚えられないので、頭の中で整理するのにはこれがかなり重宝します。
今はそのページを写メすれば、Google 機能で簡単にテキスト化してくれるので作るのは簡単。
これをプリントアウトしたら、その紙に伏線になりそうだと思うことは、マメにメモしていくわけです。
時には、自分の推理も書き込んでいきます。
読書はiPadで読むことが多いので、必然的にページをめくるのは指でチョイとスクロールするだけ。
ペンを持ったまま読書が可能なんですね。
自分も捜査をしている気になれるので、なかなか気分が出ます。

さて本作に関しては、実はこの登場人物一覧表が、犯人の推理に大いに役に立ちました。

読者探偵はどう推理したか?

まず、最初に思ったのはこの登場人物一覧に載せてある以外の人物が犯人であるはずはないいうこと。
真犯人は必ずこの中にいる。
次に、推理小説のセオリーとして、明らかな動機があったり、明らかに怪しい人物が犯人である可能性は、逆に低いということ。
ミステリーのドラマツルギーとしては正攻法です。
これを前提にして、この登場人物一覧表を見てみると、読者目線から見て、いかにも怪しげな人物が1人浮かびあがっていました。
通常なら、その他大勢の登場人物でもおかしくないのに、なぜか登場人物一覧に名前が載っていた人物。
読者目線では、こいつは怪しいということになります。

予想通り、この犯人は物語の後半ではそれなりにクローズアップされてくるわけなのですが、第一の殺人事件の段階では、あえて読者からは関心がいかないようなサラリとした扱いになっているというのがミソ。

作品では、ここに第二、第三の殺人が加わり、たとえ第一の殺人を看破した読者も、そう単純には事件の真相にはたどりつけないような二重三重の迷路が仕掛けられています。
本格ミステリともなれば、作家としてもそこは商売です。
読者の何倍も頭をひねっているものです。
それに、第一の殺人事件の犯人の目星を付けるのは簡単だったと、作品中で、ドルリー・レーン探偵も語っています。
もしここで犯人の見当がついてしまった読者がいたとしても、この物語はそれだけでは終わりませんのでご心配なく。

本作を最後まで読了すると、人物のキャラ配置や、物語の構造が、如何にその後のミステリーに大きな影響を与えたかということがいちいち思い当ってニンマリする場面が多くありました。
この辺りが古典ミステリーを読むときの醍醐味ではあります。

ちなみに、少々気になった点もあります。

第一の殺人の詳細を聞いたところで、ドルリー・レーン探偵は、サム警部たちに、犯人の目星はついたと伝えます。
しかし、今はまだそれを伝える段階ではないと告げた後で、第二第三の殺人が起こるという展開。
この名探偵の思わせぶりが、それ以降の殺人を招いてしまうということがミステリーには意外とありがちです。
事件を未然に防ぐのも名探偵の仕事ではないのかいと読者としては、ふとつぶやきたくなります。

学生の頃に読んだ横溝正史の金田一耕助シリーズでも、あれだけ犯人に人を殺させておいてから「わかった!」はないだろうと思うことはありました。
起こるべき殺人を未然に防げない金田一は名探偵でないだろうというわけです。
では、ドルリー・レーンはどうか。
よくよく考えれば、事件の中にいる探偵が、起こるべき殺人を未然に防いでしまったら、殺人ミステリーは成立しません。
最後にヒロインを守ると言う展開ならありそうですが、名探偵が真相を出し惜しみしているうちに、被害者が増えると言う展開は実に多いわけです。
もっとも殺人が派手にたくさん起こるほど読者は喜ぶわけですから、これは作者としては悩ましいところ。

ただこれについても、ドルリー・レーンは、作品内で一応の弁解はしています。
これに納得するかしないかはあくまで読者次第。
すべての謎が氷解するカタルシスの中で、多少のモラル違反にはあえて目をつぶるという展開は、殺人事件をエンタメにするミステリーにはありがちなこと。
このあたりを読者に納得させられるかどうかは、ひとえに作者の腕次第というところでしょう。

そして、もうひとつ。
第三の殺人のダイイング・メッセージについて。
あれは、自分でもやってみましたが、個人的には片手でやるのは無理でした。
但し、ホイチョイプロ作品「波の数だけ抱きしめて」で、中山美穂がなんなくやってのけているのは見ているので、出来る人には出来るのでしょう。
特に文句は言いません。

ドルリー・レーンのキャラクターについては、相当クセが強い濃い目のキャラクターなので、アニメや映画に登場させれば映えるのかなとは思います。
ただ、個人的には、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロのような茶目っ気が皆無なのが惜しい。

本作よりも傑作の誉れ高い「Yの悲劇」は、近日中に読んでみる予定です。

我が両親からの置き土産でしたが、堪能いたしました。





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