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映画「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」2017年アメリカ

映画「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」2017年アメリカ

「ホラーの帝王」スティーブン・キングが1986年に発表した小説を原作とした映画です。

まず邦題タイトルに一言。
映画の原題は、ズバリ"IT"だけです。
これに「“それ”が見えたら、終わり。」というサブタイトルはちょっと余計ではないかという気がしてしまいます。
同じホラー映画「死霊館」シリーズには、「 悪魔のせいなら、無罪。」というサブ・タイトルがついてるものもあります。
こちらの場合は、シリーズ8作目ということもあって、原題にも"The Devil Made Me Do It" というサブタイトルがついています。
しかし、これに「 悪魔のせいなら、無罪。」というサブタイトルを当てるのも、やはり、センス不足を感じます。
それとも、逆にこれが今時のセンスなのか。ロートルには理解不能です。

洋画の宣伝部が、タイトルでもお客を呼ぼうと、かなり苦心して邦題をつけてきたケースは過去にもあります。
有名なところでは、「007ロシアより愛をこめて」に「007危機一発」。
ビートルズ映画の「A HARD DAY'S NIGHT」に、「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」なんてのもありました。
なかには、原題よりも、はるかにセンスがいいという邦題もありましたよ。
"Butch Cassidy and the Sundance Kid"が、「明日に向かって撃て!」。
"Bonnie and Clyde"に、「俺たちに明日はない」などなどですね。
タイトルを強調するのに"!"を使うのならまだ理解できるのですが、「、」「。」が入ってしまうのは、古い映画ファンとしては、如何なものかと思ってしまいます。
過去には2013年の「桐島、部活やめるってよ」とか、2016年のアニメ「君の名は。」もあるにはあります。
でも、まだこれなら映画のタイトルとして多少のセンスは感じられるのですが・・
昨今は、アダルト動画コンテンツにも、中身をそのまま文章にしているようなタイトルが目立ちます。
もちろん、その方が売り上げには貢献するというデータがあるからこその傾向なのでしょうが、例えエロコンテンツではあってもそこにはセンスのかけらも感じられません。
本作も同様、せっかくそれなりの製作費を投入した堂々たるホラー映画作品が、このサブタイトルで、陳腐なB級映画が漂ってしまうのは否めないところ。
ああ、もったいない。

発表された原作小説は、なんと原稿用紙3800枚という大作です。
厚めのハードカバーで、上下巻。しかも1ページは、二段構成。
もちろん、僕は読んでいません。
物語は、27年に一度、アメリカの片田舎デリーという町に現れては、子供たちを襲って食うというピエロの姿をした悪魔の物語です。
その名は、ペニーワイズ。
では、悪魔はどうして、ピエロの姿形をしているのか。
スティーブン・キングは、はっきりと明言はしていないようですが、これにはジョン・ゲイシー事件の影響が色濃く投影されているようです。
この男は、アメリカのシリアル・キラー。そして、そのターゲットは少年たちです。
資産家でもあった彼は、度々パーティを開き、その都度ピエロのカッコをして、子供たちを物色していました。
そしてターゲットをゲットすると性的暴行を加えた上で殺害。その数は33人にも登ったと言います。
彼は、後にキラー・クラウンと呼ばれるようになります。
我が国で明るみに出たジャニー喜多川による少年たちへの性的暴行が、頭をかすめます。

小説版では、1958年と、それから27年が経った1985年の二つの時代が並行して描かれています。
もちろん登場人物は、1958年に13歳だった少年たちが、1985年には、そのまま40歳の大人になっているわけです。
この原作小説は、その後、1990年にミニドラマ化されています。
そして、それから27年が経過した2017年に、本作が映画化されたわけです。

映画版は、原作小説の構造をガラリと変えてきました。
二つの時代を同時並行で描くのではなく、それぞれの時代を「第一章」「第二章」に分けて別々に描きます。
本作は、その「第一章」ですね。映画の設定では、1989年。
「第二章」は、2年後の2019年に、「IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」として製作されます。
ですから、こちらの時代設定は、2016年ということになります。
本作の主要キャストである6人の少年たちと、1人の少女は、13歳(くらい?)という設定。
このキッズたちが、力を合わせて、ペニーワイズに立ち向かっていくというのが、第一章のストーリーの骨子となります。

そうなってきますと、すぐに頭に浮かんできたのが、同じスティーブン・キング原作の映画化である「スタンド・バイ・ミー」。
キッズたちの友情を描いたドラマという点では、本作はかなりこの映画に近いテイストです。
リーダー格の二人が、後に文筆家になるというのも同じ設定です。
本作は、ホラー映画というくくりで語られがちですが、個人的には、ホラー映画というよりも、冒険活劇ジュブナイルものの比率が高い気がします。

そして、悪魔退治と同時に、もうひとつ浮かび上がってくる本作の大きなテーマが「いじめ」です。
このキッズたちは、自分たちでチームを作っていますが、そのチーム名が「負け犬クラブ」(LOSER'S CLUB)
要するに「いじめられっ子クラブ」というわけです。
トイレの個室で上から汚水をかけられたり、腹にナイフで名前を刻まれそうになったりと、残飯に顔を押し付けられたりと、あちらのいじめは、どれもかなり暴力的です。
「いじめ」といえば、スティーブン・キングの出世作となった「キャリー」は、その少女版でした。

いじめられるだけではなく、どのキッズも、家庭に様々なトラウマとなる問題を抱えています。
リーダーのビルの弟ジョージーは、映画の冒頭で、本作最初のペニーワイズの犠牲者になってしまいます。


ビルは、雨の中、弟を一人で遊びに行かせてしまったしまった自分の責任を痛感し、悩んでいます。
紅一点のベバリーは、家庭の中で父親から、性的暴行を受けています。
火事で家族を失った黒人少年マイク、過干渉の母親に行動を縛られるエディ、聖職者の息子として宗教的抑圧にさらされるスタンリー。
太めのオタク少年ベンは、図書室にこもって町の資料を読み漁っているうちに、デリーの隠された秘密を知ることになります。
メガネのリッチーは・・

というふうに、それぞれ問題を抱えたキッズたちですが、その背後には、実は同時に、必ず問題ありすぎの大人たちが描かれています。
この映画に登場する大人たちは、ことごとく怪しく、そして怖いんですね。
ベンが、過激ないじめっ子上級生ヘンリーに、道端で暴行を受けていても、そこを車で通りかかった老夫婦は、まるで何も見なかったように通り過ぎてしまいます。
町のあちこちに、行方不明のポスターが貼られても、大人たちは無関心。
デリーという町だけが、全米での子供の失踪率が異様に高いという事態にも、大人たちはどこか他人事でよそよそしいわけです。

子供達のいじめがエスカレートする背景には、それを見て見ぬ振りをする周囲の無関心がある。
自分にさえ害が及ばなければ、後は誰がどうなろうと、触らぬ神に祟りなし。
ペニーワイズが、この町の子供をターゲットに選んだ理由は、これをわかっているからとも読めるわけです。

ペニーワイズは、7人のキッズそれぞれのトラウマを熟知しています。
そして、そのウィークポイントを、えぐるように、一人一人別々に攻撃をしかけてきます。
現実だか幻想だかわからないペニーワイズの攻撃に、キッズたちは次第に精神の均衡を失っていきます。
しかし、これがペニーワイズの常套手段だと気付いた「負け犬クラブ」の面々は、全員で協力すること約束。
すべての事件が地下に下水道がある場所で発生していることをつきとめ、それが集まる場所「井戸の家」へと向かいます。

とまあ、こう書き連ねてくると、だんだん本作がホラー映画という気がして来なくなるわけです。
そもそも、ハリウッドの多くのホラー映画は、純粋にホラー映画の枠には収まらないものがほとんどですね。
ホラーだけでは、注いだ製作費の元を取れるエンターテイメントにはならないとという暗黙のルールがあるかのようです。
アメリカ人のDNAには、「正義は勝つ。悪は滅びる。」というマインドが、間違いなく埋め込まれています。
一人一人では立ち向かうことはできないけれど、全員が手を携えて協力すれば、どんな悪魔も必ず退治できる。
恐怖そのものよりも、悪を打ち倒すカタルシスの方がメインになっていれば、もうそれはホラー映画の枠を超えています。

ペニーワイズの、キッズたちの団結を破壊しようとする周到なアタックに、一度は仲間割れをして退散する「負け犬クラブ」の面々。
しかし、友情で結ばれた彼らは、大人たちを蹴散らして、再び集まり・・
こういったアメリカ映画鉄板のドラマツルギーを経て、いよいよ映画はクライマックスの最終決戦へと向かいます。

日本のホラー映画には、「怖い! ゾゾゾ!  キャー!」だけを観客に届けられれば上等。余計なものはいらない。そんな潔さがあります。
下手に、それ以上のエンターテイメントにしようと手を加えて、恐怖パートを目減りさせては主客転倒だろうと理解しているわけです。
もちろん、ハリウッド大作のようなべらぼうな製作費はかかっていないからこそ、筋を通せるこじんまりとした理屈かもしれません。

しかしながら、本作を見てはっきりと確認できたことが一つ。
それは、1990年以降のジャパニーズ・モダンホラーの影響が、本作にはいくつも散見できたこと。
日本映画は、間違いなくハリウッド映画に影響を与えていました。
「リング」で見たあれも、「呪怨」で見たそれも、あの映画のアレも・・
どれも上手くアメリカ風にアレンジはしてありますが、ジャパニーズ・ホラーのアイデアが、本作にはいくつも登場してきました。
是非、映画を見て確認してみてください。
日本のホラーテイストは、ちゃんとアメリカでも通用するということなのでしょう。
日本人としてはちょっと嬉しくなってしまいます。

さて実は、原作小説には、映画にはない、ちょっと信じられないシークエンスがあるのだそうです。
ペニーワイズの策略に、仲間割れをしていたキッズたち。
この状況を見かねたベバリーは、男子全員にある提案をします。
それは、一人ずつ自分とセックスをしてくれというもの。
彼女は、それによって、みんなが、自分の体を通して、再び心が一つになると信じたわけです。
この描写は、原作ではかなりのページ数を割いて、詳細に書かれているとのこと。
もちろん、天下のスティーブン・キングが、その圧倒的な筆力で描くわけです。
そんじょそこらのエロ小説とは次元が違うかもしれません。

もちろん、健全なるジュブナイル映画に仕上げた本作には、このシーンは当然ありません。
あるのは、ビルとベンが、それぞれ一度ずつ、ベバリーとキスをするシーンがあるだけ。

ここで思うこと。
もしも、この原作の映画化権を、アメリカではなく、お金のない日本の映画製作会社がゲットすることが出来たとしたら。
はたして、このシーンは、映像として使うか。使わないか。
セックス・シーンですから、もちろんお金はかかりません。
しかも、その映像効果は、撮りようによっては、スペクタクル・シーン以上のインパクトはあります。
昔から、B級ホラー映画と、エロの相性は非常によろしいという実績があります。
キッズたちの年齢は、やや微妙ですが、少々アダルトに寄った「イット」も、オジサンとしては、なかなか興味のあるところ。
製作費がない状況で、本作を映画化するなら、案外このシーンはありかもしれません。

もともと、スティーブン・キングという人は、自分の小説を、スタンリー・キューブリックのような一流志向の監督に高次元処理をされるのを嫌う人です。
それよりは、もっとベタで一般受けをするエンターテイメントに徹したホラー映画が好きな人なんですね。
もちろん、この原作を執筆している頃には、ホラー作家として彼の名声はすでに世に知れ渡っていました。
当然、執筆中のこの小説もいずれ映画になるとは確信していたでしょう。
キッズたちの、セックス・シーンも、そんな妄想に頭を膨らませて書いていたかもしれません。

その意味では、このシーンを一番見たかったのは、実は原作者自身だったかも。
おまえもだろ?

いや残念ながら僕は、巨乳熟女フリークですので・・・


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