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読書「風姿花伝」世阿弥

定年退職後は、読書の嗜好は完全に、古典にシフトしております。

今の世の中に支持されているベストセラーに興味がないわけではないのですが、どんな名著と評判の書であっても、言ってみれば、評価されているのはとりあえず今の時代だけ。
そこへいくと、古典の場合には、「時代の荒波に揉まれても、生き残り、読み継がれている」という実績があります。

そこに、時代を経ても色褪せない普遍の真実が発見できれば、これは、かなりの確率で、物事の本質であろうと思えるわけです。
つまり、今の世の中に受け入れられている著作が、歴史的見地から、真っ当な評価を獲得するのは、まだまだ何十年か先のこと。少なくとも今ではないだろうと思ってしまうわけです。

僕のように、読んだ本にはやたらと感化されやすい者としては、未だ評価の定まらない本にハマってしまうのはかなり危険です。
面白いかそうでないかくらいならミーハー感覚で判断しても問題はなさそうですが、その著作に対して、正当な評価ができるかと言われれば、自信はありません。
如何に本好きとはいえ、自分の知識も感性も未だ甚だ怪しいのは承知しています。

そこへ行くと、古典はある意味では安心して読めるわけですね。

もちろん、その本が執筆された時代背景くらいは、学習してから読む必要はあるでしょうが、もしもその中に、今の時代や、今の自分に通じる何かが発見できれば、これはしめたもの。
温故知新ではありませんが、今は亡き知者と、今を生きる本好きの百姓が、時を超えて握手をしたような気分になれます。

今回選んだ「風姿花伝」も、まさにそんな一冊でした。

「風姿花伝」は、能役者の世阿弥が著した能の理論書です。
世阿弥自身が会得した芸道の視点から、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学などが記されています。

風姿花伝は、1400年頃に書かれて以来、現在に至るまで、日本の芸術論の最高峰とされています。
能の修行方法や演技論にとどまらず、さらには芸術論や人生論までを幅広く論じています。

現代において、知らず知らず我々が使っている言葉の中にも、世阿弥の遺産はありますね。

「初心忘るべからず」
「秘すれば花なり」
「物真似」
「花がある」

などなど。

世阿弥が今の時代に生きていてれば、コピーライターとしてもやっていけたかも。

風姿花伝は、能の演者に留まらず、今では他の分野の芸術家やビジネスマンからも広く愛読されています。
600年以上の歴史の中で生き抜いてきた本書ですが、この本の存在が広く世の中に知れ渡ることになったのは、実は明治時代になってからのことでした。

それまでは、代々能楽流派の秘伝の書として、門外不出で伝承されていて、その存在を知っていたのは将軍家か、一部の関係者のみ。
後継者問題に悩んでいた世阿弥は、父である観阿弥から引き継いだ能の奥義や、自身が切り開いた芸事に生きるものとしての心構えやノウハウを、なんとしても次世代にに伝えなければいけないという強烈な使命感を持っていたようです。

つまり、本書は元々は一般人が、決して触れることはなかったはずの秘伝の書だったわけです。

たとえ、自分の家のものではない他所様の家の「先祖伝来」の家宝であったとしても、「秘するもの」に触れられるのはなかなか楽しいものです。

そこで、今回はこの「風姿花伝」の中から、今の自分の目から見た現代にもピンとくる部分に焦点を当てて、掘り下げてみました。






一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。

まず世阿弥は、芸に生きる者の心得を、冒頭で述べていますが、これを、今の芸人たちが読んだらどう思うか。
女遊び、ギャンブル、酒宴を戒める暮らしが、今のタレントたちに出来ますでしょうか。

無理だろうなあ。

いやむしろ、その「三の重戒」をしたいがために、芸能人になったような輩が多いような気が致します。
昭和の時代には、「女遊びは、芸人の芸の肥やし」といった風潮もありましたが、今のSNSの世の中では、まさに一発の不倫が、芸人の命取りになりかねません。
そうなると、もともと芸が怪しい人たちばかりが、芸能人と称してタレント活動をしている昨今ですから、これはもうひとたまりもありません。

成功しても尚、酒女ギャンブルを律する、意志の力を持てるかどうか。

難しいところです。

稽古には厳しくというのは、芸事に携わる人にとっては、今も昔も変わらぬところでしょう。
スポーツの世界でも、「練習は嘘をつかない」とはよく言われることです。

「情識はなかれとなり」

これがちょっと面白い。
つまりこういうことです。

稽古や修行において冷静な心を持ち、感情的にならずに集中すること。
ここでいう「情識」とは、つまり感情や情熱を指す言葉です。

稽古や修行に取り組むとき、感情にとらわれたり情熱に任せたりすると、冷静さや客観性が失われ、思考や技術の向上が阻害される可能性があります。
つまり、感情や情熱は一時的なものであり、波風立てずに冷静な状態で取り組むことが重要というわけです。
感情の起伏や情熱に振り回されず、内面の静けさや洗練された美しさを追求することが求められるということ。

また、この教えは倫理的な側面も持っています。

感情に支配された行動は、思慮や倫理観が欠如し、道徳的な判断が曇ります。
稽古や修行の道を進む者は、その道にふさわしい倫理や道徳を守ることが求められます。
道徳的な行いと冷静な心を備えることで、技芸や道楽の深化や成長が可能となります。

「テンパったら、その勢いで動くな。」

これは、自戒を込めた僕の人生訓です。

ロックバンドの演奏の要となるのはドラムス。
ある有名ロック・バンドのドラマーがこんなことを言ってましたね。

「パフォーマンスとしては、感情の昂りを意識的に表現するが、ステージではあれは全部演技。実際には、メンバーの様子を確認しながら、クールに演奏している。」

なるほど、立派に世阿弥の秘伝を体現しています。
但し、そのドラマーが、プライベートで戒律に厳しいかどうかは不明。


第一  年来稽古条々


このパートがちょっと面白い。

つまり、芸人は、自分の年齢によって、芸への向き合い方が違ってくるよというお話です。
世阿弥は、これを7つの段階に分けています。

七歳

まずは、子共に芸事をさせるには、指導者はどういう態度で臨むべきかというお話です。
能の世界では、一般的には、七歳をもって能楽の稽古を始めることが多いとされているようです。
この時期の子供たちは、自然な表現や動きを身につけることが重要であると世阿弥は説きます。
また、善悪の判断を求めることや、指導は行わず、子供たちの自主性を尊重することが求められます。

なるほど。

これは、現代でも子役の使い方が上手な映画監督が熟知していることですね。
つまり、子供には、決して「演技」は要求しないということ。
如何に、子役に自然なリアクションを引き出せるかが、子役演出のポイントです。
個人的にも、演技力のある子役というのは、どうも好きになれません。

「泣こうと思ったら、飼っていた犬が死んだ時のことを思い出す。」

そう言っていた某子役がいましたが、たとえそこで本物の涙を流していたのだとしても、それはつまりウソ泣きだということ。
目薬の涙と、本質的には何も変わりません。
養老孟司さんが、「子供は自然」とよくおっしゃっていますが、まさにその通り。
ピュアで、予想ができないリアクションがあってこそ、子供の「芸」の真骨頂です。


十二三より


ここが、ちょっとドキリとしました。
世阿弥は、この年頃の少年には、幽玄の美が宿ると言います。
それを、世阿弥は「時分の花」という言葉で表現しています。
それには、一時的な美しさや流行の傾向があるという意味も含まれています。
つまり、子供の時期の稽古は一時的に輝きを放ちますが、それだけでは真の能楽の花ではないということを意味しています。
真の花とは、時を超えて美しさや価値を保つものであり、それを追求するためには長い時間と努力が必要ということ。

このように、「時分の花」という表現は、子供の成長過程における稽古の一時的な性質や限定的な美しさを表現し、将来的な成長と真の能楽の追求に向けた努力の重要性を示しています。

実はこれ、世阿弥の舞台デビュー時の経験が、大いに反映されています。
彼の父親である観阿弥が新熊野神社で催した猿楽能に、当時はまだ鬼夜叉と名乗っていた12歳の世阿弥が出演し、それが時の室町将軍足利義満の目にとまることになります。
12歳の鬼夜叉は、ジャニーズ・タレントもまとめてぶっ飛ぶような色白の超イケメン少年でした。
鬱蒼とした森を包み込む霧のような、夕焼けのグラデーションに煌めく海のような、シンシンと雪の降り積もる冬山のような少年の幽玄の美しさに、将軍義満は一目惚れしてしまうわけです。

それ以降、鬼夜叉は義満の寵童となり、一心にその寵愛を受けることになるわけです。
当時、殿様や偉い身分の僧侶たちの間で「少年愛」はかなり流行しており、AI で調べる限りは、その寵愛はジャニー某のような犯罪的行為ではなく、かなり世間からも認知されたプラトニックな純愛であったケースが多かったようです。

以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになるわけですが、世阿弥はその特別待遇に甘んじることなく、自分の現在の状況を「時分の花」と理解し、以後も芸道に弛まぬ精進をして、能楽の完成に努めたというわけです。

それにしても、自分の「時分の花」を理解せずに、美しい盛りが過ぎれば、どんどんと芸能界からフェイドアウトしてゆく二流の元イケメン・タレントがなんと多いことよ。


十七八


この時期は、身体を使う芸事では一番難しい時期です。
少年から成熟期への変化の中での稽古の難しさ、年齢による制約など、能楽師が経験するさまざまな困難や心情が語られています。
稽古においては、声や調子だけでなく、身体の使い方や心の集中も重要であることが示されています。

精神的にも多感な時期を迎えますので、メンタルな面で拗らせないことも大切。



二十四五


さあ、この年齢になると、芸事の習得は盛りを迎え、才能が一気に花開く年齢です。
おそらくスポーツ選手でもそうでしょう。
非常に上手くなり、人々にも注目されるようになります。
芸能の成果が最も発展し、成功のピークに達する時期がこの年齢。

「初心」とは、この時期のことを指します。

ただし、文中では「自分の立場を程々に把握していなければ、その程度の花はあっという間に失われるとも述べられています。
つまり、自分の能力や立場を適切に把握せずに、スキルアップに執着することで、元々持っていた花を失ってしまう可能性もあるということです。

いずれにしても、スポーツにせよ、音楽にせよ、芸事にせよ、幼少の頃からやっていた分野の才能が一気に開花するのは、この時期だというのは大いに合点が生きます。
スポーツであれば、持って生まれた身体能力がピークになるのはこの時期であることは間違いないでしょうから、後はそれぞれの分野のスキルが加われば、常識的に最盛期を迎えることは容易に想像がつきます。

これは音楽でも同じようなことが言えるような気がします。

特に、ミュージシャンのクリエイティブな才能がピークに達するのは、おおむねこの年齢です。
ビートルズのメンバーが、この年齢の時に発表したアルバムは、「ラバー・ソウル」「リボルバー」。
ここで、創作意欲に火がついた彼らは、後の「サージェント・ペッパーズ」や「アビー・ロード」の高みに向かっていきます。
マイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズと一緒に「スリラー」を作ったのもこの時期。
ボブ・ディランもフォーク・ギターをエレキ・ギターに持ち替えて「追憶のハイウェイ61」「ブロンド・オン・ブロンド」といった名盤を矢継ぎ早にリリースしたのも彼が24歳の時。
エルトン・ジョンも、井上陽水も、桑田佳祐も、やはりみんなこの年齢の頃に、かなり「いい仕事」をしています。

もちろんこの年齢では、経験値そのものはまだここからというところでしょうが、持って生まれた創造力のポテンシャルがピークに達するのは、確かにこの年齢かもしれません。

もちろん、身体系の芸事もまた然りでしょう。

では、ここでピークを迎えた後のアーティストたちの人生はどうなるのか。



三十四五



世阿弥はこう言いますね。

もしも、この時期において、天下に認められることもなく、名声も思うほど得られないのであれば、どれほど上手であっても、まだ真の花を研究しきっていないと自覚すべき。
もしも、その境地に達していない場合、そのまま四十歳を過ぎれば、その能力は衰えていくのみでしょう。

つまり、極めたピークを維持できる上限年齢は三十四五歳まで。
なので、この時期は、過去の経験を振り返り、未来の道筋を見極める時期です。
この時期までに自分のスタイルを確立し切ることができなければ、その後天下に自分の芸を認められるのは、非常に困難である。

なかなか厳しいですね。

鳴かず飛ばずの芸人が、自分の芸に見切りをつけるのなら、この時期ですよということでしょう。
この年で、第二の人生を歩み始めた芸人は、結構いるかもしれません。



四十四五


さあ、いよいよ「衰え」とどう対峙するかです。

この時代から能楽の手法は大きく変化するでしょうと世阿弥は言います。
たとえ世間的に認められていようとも、その能力は確実に衰えていきます。
徐々に身についた花や、色々な花は、確実に失なわれていくのです。。
どれだけ成功した芸人でも、これ以降の状況はますます厳しくなっていきます。

それに抗う方法の一つとして、世阿弥は、この時代からは、細かな模倣を避けるべきと説明しています。
そして、たとえ外見が衰えていっても、居住いを正して、ますます能楽を謙虚に学ぶべきだといいます。

この年齢になれば、どんな装飾も不要。
もし、この年齢まで失わなかった花があるとすれば、それは真の花であると言ってよい。
それが真の花であれば、精進次第では、五十近くまで失わずにいることも可能。
そして、その花を咲かせ続けることができるのならば、四十歳にしてもなお、名声を得ることは不可能ではないと世阿弥は説きます。

世間的な評価のあるなしに関わらず、真の名手は、自身をよく知ることで、一流のプレイヤーでいられるということですね。
どんなに芸を極めたという自負があろうとも、ますます謙虚になり、細かい装飾を楽しむことなく、自らを鍛えるべきです。

名声を維持し続けた人の心得というのはこうしたものということですね。

老いては、謙虚さを失うなという話です。



五十有余



さて、さらに年老いたらどうなるか。

世阿弥は、室町時代の人ですから、老人事情はもちろん今とは大違いです。

室町時代の男子の平均寿命は、なんと15歳程度と推定されています。
これは、当時の乳幼児死亡率が非常に高かったためですね。
1歳未満の乳児死亡率は、約50%と推定されています。そのため、5歳まで生き残った男子の平均寿命でさえ、21~23歳と言いますから、今とは比較になりません。
ですから、ある程度の暮らしが保障されていた武家公家クラスの人でなければ、こんな高齢者はいなかったはずです。
そんな時代の、「五十有余」ですから、これは、今の感覚で言えば、後期高齢者クラスの超高齢といっていいと思います。。

麒麟ですら老いてしまうと普通の馬にも劣ると世阿弥は言いますが、彼は最後に自分の父親である観阿弥の思い出を持ち出してきます。
本当に才能ある者であれば、物質的なものはすべて失っても、美しい花だけは残るものだ。彼はそう言います。

世阿弥の父親である観阿弥は、五十二歳でなくなる四日前に、駿河国の浅間の神前で行われた法楽の祭りの舞台に立っていました。
その日の申楽は特に華やかであり、観客全員に褒美が与えられたそうです。
その父の舞を見ながら、世阿弥はこう思います。
どれだけ、身体は枯れ果てていようと、美しい花だけはどうしても最後に目を引くもの。
この花こそは真に価値あるものとして認められる。
その舞も、枝葉は少なく、老木になっても尚散らずに残る花はある。

一流の芸人の一生というものは、かくもストイックで、道徳心に満ち溢れ、謙虚でありながら、キャリアの絶頂を迎えても、決して驕らず、向上心だけは最後まで失わない。

そこには、父親でもあり、師匠でもあった観阿弥に対する絶大なるリスペクトがあったことは言うまでもありません。



第三 問答条々



「第二 物学条々」は、能の実践スキルになりますから、ここは飛ばして、第三に参ります。
ここは、芸の実力を発揮するための様々な工夫が、問答形式で述べられています。



九つあるうちの、二番目に述べられているのが「序派急」ですね。
どこかで、聞いたことがあると思う人がいると思いますが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の三本に、それぞれつけられていたタイトルですね。(「急」は「Q」になっていましたが)

序破急とは、能の演技の構成要素の一つで、序は、能の始まりの段階のことで、ゆっくりと静かに演じられます。
破では、序の緊張を解きほぐし、動きや音色が華やかになります。
そして、急は、能のクライマックスの段階で、最も激しく演じられます。
四コマ漫画における起承転結のようなものでしょうか。

一方で、序破急は、能の美の原理でもあります。
能は、序破急によって、静と動、悲と喜、緩急などの対比を表現し、観客に深い感動を与えることになります。





ここでは、申学における勝負の立会いの必勝法が語られています。

能で勝負?と聞いて、え?と思ってしまいましたが、勉強不足でした。

申楽の勝負の立合いとは、能楽師同士が能の演技を競い合うものです。
申楽は、演者の技量や演技の面白さで勝敗を競います。
ジャッジの方法は不明。誰か知っている人教えてください。
まあ、そういう能の楽しみ方もあるようです。
申楽というのは、能の前身ですね。

申楽の勝負の立合いでは、能楽師は、それぞれが得意とする能を演じます。
また、能楽師は、相手の能楽師の演技をよく観察し、それに応じて自分の演技を変化させます。このように、能楽師は、相手の能楽師との駆け引きの中で、勝利を目指すわけです。

この勝負の駆け引きの心得を、世阿弥はこう解説しています。

申楽の勝負に勝つためには、まず能をたくさん知っておく必要がある。
その上で、敵方の能に勝つためには、敵方の能とは違う能を選び、違う演じ方をしなければならない。
つまり、決して相手の土俵では戦わないというのが勝負事の鉄則だということです。
その懐の深さと、引き出しの多さがあれば、能は申楽に負けることはないということですね。







ここでまた再登場するのが、「稽古は強かれ、情識はなかれ」です。

要するに、上手な人も下手な人も、自分の能力に満足せずに謙虚になるべきですよということ。
あらゆる人や状況から学び、工夫を重ねることで、上達できるわけです。
自分の良い面も悪い面も正しく理解し、他者との比較ではなく自己向上を追求しましょう。稽古を重ね、傲慢な態度を捨てることが重要です。
自分の敵はあくまで自分であるということ。

この辺りは、600年前も、今も芸事を突き詰める道筋は変わらないということでしょう。






能において花を理解することは重要であり、その理解方法について説明されています。

ここで説明されるのは、「真の花」。

花の魅力は一時的なものであり、真の花は咲く道理も散る道理も人のままであり、ここに辿り着く奥義は、長く続けること。
稽古や模倣から技を習得し、工夫を究めた後にこそ、花の本質を理解することができます。

花は心であり、種は技術であると、世阿弥は言います。

このような心構えによって、家庭を守り、芸を重んじることで、亡父の教えを受け継ぎ、子孫に家の教えを残す意義があると説かれいるわけですね。




第七 別紙口伝



物真似


ここに、物真似芸の極意がかいてあったので、紹介しておきましょう。

コロッケを代表とする、今時のお笑い芸人のオーバーアクト芸とは、テイストがかなり違いますね。

モノマネをするなら、面白いところばかりを真似るのではなく、さまざまな側面に目を向けるべきだ。
たとえば、老人のものまねをするなら、ただの素人の老人が、自然体で、たまたま長寿になってしまったという装いをして舞い踊るようにするべきだ。
ことさら、年寄りであることを意識して、老人に似せようとする気持ちは持つべきではない。
ただ、対象の老人の何気ない振る舞いに集中すべきである。
また、明らかに、年寄りと思われるようなデフォルメした演技や話し方は避けるべきだ。
お囃子のリズムに合わせて足を踏み、手を動かし、仕草や表情をリズムに合わせ要としても、年寄りの場合、そのリズムに合わせる場所は、太鼓や歌、鼓の音頭よりも少し遅く足を踏み、手を動かし、おおよその仕草や表情もリズムにわずかに遅れるようにするものである。
このような技術は、年寄りの形を具体的に表現するものであり、このリズムの使い方を心に留めておき、他の部分は、いつもよりも非勤めて滑らかに行うべきである。

老人の多くは、心の中では、若くなりたいと思っている。
しかし、力がなく、体が重く、聴力も鈍っているため、その振る舞いは決して若々しく見えない。
この理解が、本当のものまねの基本である。

つまり、能は狂言のような喜劇ではないので、表現はあくまでもリアルに、そしてスタイリッシュにというところでしょうか。

世阿弥の指導は、かなり微に入り細に入りしていますね。

ある落語家の重鎮がこんなことを言ってましたね。

「客を笑わせようとしているうちは、まだ本当の芸じゃねえ。客が思わず笑っちまうのが、本当の芸というもんだ。」



秘すれば花


これも、「風姿花伝」では、有名なキラーフレーズ。

花を秘密にすることが花となる秘訣であり、重要であると世阿弥はいうわけです。能に限らず、あらゆる分野において秘密は重要であり、秘密にすることで価値が生まれると。
なるほど。
秘密を明かすことで価値が失われることを理解していない人は、秘密の大切さをまだ知らないんだというわけです。

花は、ただ美しい花として認識されるだけでは、見る人の心に響くエモーションは生まれません。
花を見る人が花とは認識せずに、ただ綺麗な自然の風景とし眺めるのであれば、それはもはや花ではない。
つまり、花が最も効果的にその美しさをアピールするためには、人の心に思いもよらぬ形で姿を現すことで、感動を与えることが必要だというわけです。

つまり、サプライズ効果ですね。

女性に花束を渡すときに、どうすればいかに効果的に渡すかを、男なら誰でも考えますよね。あの時と同じです。
渡す寸前まで、その花束は見せないことに腐心することで、手渡した時の効果は倍増するものです。

世阿弥は、本書に「秘伝」という言葉を何度も使っています。

本書も、明治時代に、一般向けに発表されるまでは、長い間、能の文化を継承する世阿弥の家系だけに伝わる極秘ノウハウ本だったわけです。
能の奥義を他人に知らせず、それを厳粛に守るということが、能楽各流派の家訓だったわけです。

秘密を守ることが花を花として延命させることであり、秘密を明かさないことで花の価値が生まれるというわけですね。

これは、芸の土俵でも同じこと。

つまり、どんな奥義を取得していたとしても、それをめったやたらにひけらかさないことが、一流の証というわけです。
最近の風潮としては、どちら様も、承認欲求が相当に高じていらっしゃるようで、自慢のスキルを取得すれば、すぐにYouTube動画にして、世界に向けて発信されている方が大勢います。
花は見てもらってナンボ。
彼らは、隠しておくつもりなど毛頭なさそうです。

「秘すれば花」の精神は、果たして現代の世の中で、理解されるか。
これはちょっと難しそうです。



因果の花



本書では、色々な花が出てきますが、最後にでくるのは「因果の花」です。

「因果の花」という表現は、行動や出来事の結果として現れる花を比喩的に表現したものです。
言い換えれば、行動や努力が「因」であり、それによって生まれる結果が「果」となるという考え方です。
この概念は、人々が自分の行動や選択によって直面する結果や影響を理解し、因果関係を意識することの重要性を示しています。

因果の花を知ることは、自分の行動や選択がどのような結果をもたらすかを理解することを意味します。
つまり、良い行動や努力によって良い結果が生まれ、逆に悪い行動や怠慢さによって悪い結果が生まれるという法則を意識する必要があるということです。

この表現は、個人の成長や成功、そして人生の中での選択や行動において因果関係を理解し、良い結果を得るための重要な指針となります。

この辺りになると、本書はもう能の技術を伝える実用書というよりは、もう自己啓発本の域まで達していますね。


伝統の重要性



最後に、世阿弥は、自分が書き残したこの重要な秘伝の書を、後世まで伝えていくことの重要性について触れています。


家における大切なことは一代一人に伝えられるものです。
たとえ一人の子供であっても、才能のない者には伝えるべきではないと世阿弥は言い切ります。

「家々にあらず、続くことで家とする。人々にあらず、知ることで人とする」

つまり、伝統が継続されることで、初めて家は機能し、それを伝え切ることで、人は人として存在するというわけです。
これは、万人に共通の優れた芸を、正統なかたちで後世に伝えていくことに、世阿弥がいかに拘ったかを物語っています。

善悪の判断は時代や状況によって変わるため、常に客観的な判断基準を持つことは難しいと言われています。
これはもちろん、世阿弥も承知していたでしょう。
しかし、だからこそ、彼は自分がその奥義を極めた能楽という伝統芸能を、寸分変わらぬ技術とマインドで、後世に伝えていくことにこだわったのかもしれません。

世阿弥のその執念は、650年もの長い年月を経ても、当時の形態を可能な限り維持したまま伝えられ、歌舞伎と並ぶ、現在の日本を代表する伝統芸能の地位を確保しています。

本書では、芸能の伝承においては、才能や継承者の資質によって伝えられるべきかどうかが決まることも示されています。
さらに、この文書の内容は秘密とされており、限られた人々にのみ伝えられるべきものとされてきました。

本書「風姿花伝」は、室町時代当時の、歴史的な背景や文化的な要素を含んでおり、当時の社会の考え方や価値観を窺い知ることができるという意味では重要な歴史書でもあります。

芸術とは、おおむね、時代の流行に合わせて、その姿を変えていくものかもしれませんが、ファッションでも音楽でも、不思議にあるタイミングで、定期的に原点回帰するもの。
すると、ずっと変わらずにその姿のままでいた伝統芸能からは、皮肉たっぷりに「やあ。おかえり」と言われてしまう気もしてしまうわけです。

変貌していくのが芸術なのか、変わらないものが芸術なのか。
これはまた悩ましいところ。

8年間の活動期間で、変遷し続けて解散したビートルズと、結成以来、60年以上も、自分たちのスタイルを貫き通したローリンク・ストーンズの、果たしてどちらに、あなたは軍配を上げるでしょうか。

まあ、それは人それぞれですね。

ちなみに世阿弥は、時代に迎合して、ただ芸能界にしがみつこうとする芸人に対しては、憎らしくもこんな言葉を用意していましたよ。

「初心忘るるべからず。」


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