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プロジェクト・ヘイル・メアリー 一か八か!

プロジェクト・ヘイル・メアリーは早川書房より2021年12月16日に刊行された上下巻のSF小説だ。
僕が知ったのはこの6月に入ってからだが、もし刊行当時にこの本を知っていたなら、さぞかし素晴らしいお正月休みを過ごせていただろう。悔やまれる。

とはいえ今読んだからといって感動が薄れるわけでもなし。この本とお付き合いした1週間は大変素敵な日々だった。
本書の感想を書いている方は軒並みネタバレなしで読んでほしいと思っているようだ。僕もそうだ。あらすじだって事前に読んで欲しくないし、なんならカバーイラストですら見て欲しくない。とはいえ書店やネットで買おうとするならいやでも目にするだろうし、ネタバレに配慮して感想を書こうとしても大変息苦しい。

ということで、ガッツリネタバレして感想を書きたくもあるが、どうにも勿体無い気がして中途半端な内容になってしまった。
まあ、感想として書き上げるよりも、共に読み合った友人とアレやコレやを語り合うほうがこの本にはふさわしいだろう。それこそが、本書がどういう本なのかを一番よく表していると思う。


裏表紙のあらすじ

一人の男が真っ白い部屋で目を覚ます。体はろくに動かず、ようやく身の回りを見渡すと、自分が寝ているベッドと同じものが二つ。二つのベッドの上にはミイラ化した遺体。その遺体を見ていると涙がこぼれる。自分が誰なのか、彼らが誰なのかも分からないが、「彼」にとって「彼ら」は、とても大切な存在だった。
ひどく重い体を引きずり、部屋を見回す。少しずつ記憶が蘇ってくる。どうにかこうにか自分の名前、ライランド・グレースを思い出し(それは「ハッチ」を開ける認証キーだった)、部屋を出る。そこで見つけたのは窓に映る真っ黒い空間と大きな太陽。そこは地球ではなかった。自分が何者かを思い出し、ここが何処かを思い出し、そして、自分の使命を思い出していくグレース。
この部屋は、いや、宇宙船「ヘイル・メアリー号」は、地球の危機を救うため、片道の燃料のみ搭載し、3人のクルーを乗せて地球を旅立ったのだ。

宇宙飛行士に必要なもの

著者アンディ・ウィアーの代表作に「火星の人(マーシアン)」がある。リドリー・スコット監督の映画「オデッセイ」の原作だ。

オデッセイは、近未来、火星の地上で調査していた宇宙飛行士達が、嵐を逃れて宇宙船に避難しようとした際、主人公のマーク・ワトニーが飛んできたアンテナに吹っ飛ばされて一人、火星に取り残されるところから始まる。映画は、次の調査団がくるまでの長い年月、到底足りない食糧でどうにか生き延びようと奮闘する様を描いている。
草木も生えない、というか酸素すらない不毛の大地での極限サバイバル。思い浮かべるだけでも息苦しくなるが、主人公であるマーク・ワトニーがとにかく陽気なのがこの映画の大きな特徴だ。冗談を言いながら目の前を課題を一つずつクリアしていくマークと、地球で彼が発した救難サインを受け取り、なんとか救おうともがく人々。お決まりの嫌なやつなんか一人も出てこない。登場人物みんなが(もちろんマーク自身も)マークを救おうと奮闘する映画だ。見終わった後にはなんの文句もない。あー良かった!で終われる素晴らしい映画だと思う。

あえて、だろうが、火星の人のマーク・ワトニーとプロジェクト・ヘイル・メアリーのライランド・グレースは似ている。共に陽気な人物だ。グレースも一人ぼっちで冗談を言いつつセルフつっこみに勤しんでいる。
思うに、陽気さ、楽天家たることは、極限の中で活動する宇宙飛行士にとって大切な要素と作者は考えているのではないだろうか。
もしも自分と宇宙船を繋ぐロープ(ザイル)が切れたら。
もしも地球との通信が切れたら。
もしもデブリがぶつかって宇宙船に穴が開いたら。
簡単に死んでしまうような「もしも」が、宇宙にはそれこそ星の数ほどあるだろう。自分の暗い未来を想像し、それに囚われてしまえば人は何もできなくなる。未来がどうなるかなんて、本当に分からない。

ペンシルバニア大学のボルコヴェックらの研究によると、心配事の79パーセントは実際には起こらず、しかも、残りの21パーセントのうち、16パーセントの出来事は、事前に準備をしていれば対処が可能。つまり、心配事が現実化するのは、たった5パーセント程度という結果を導き出しました。

科学が証明、「不安だ」を「〇〇している」に言い換えるだけで実力が3割増しになる

必要なのは今何をすべきか。これは地球に帰還したマーク・ワトニーが、つまり、アンディ・ウィアーが、未来の宇宙飛行士達に話して聞かせていることだけど、宇宙飛行士に限った話ではない。
夏休みの宿題をギリギリまでやらないのも、先だけ見つめてゴールの遠さにうんざりするからだ。目標(歩く方角)を決めたら先を見つめる必要はない。数キロ先、数百キロ先のゴールではなく、今日の一歩だけを見つめればよいのだ。

宇宙は暗い森なのか

ここから思いっきり本書のおいしいところ、この本を読もうとしている人が何も知らないまま読んで欲しい部分に触れてしまうのだが、本書を紹介している感想では、中国のSF小説、三体を引き合いに出しているものがある。
プロジェクト・ヘイル・メアリーと三体は、まあジャンル的にはお隣さんといったところだが、ストーリーは全く異なっている。それでも三体が言及されるのは、この小説内で披露された「暗黒森林」説への一つの解答が、プロジェクト・ヘイル・メアリーで描かれているからだと思う。
暗黒森林説とは、ざっくりいうと宇宙において異星人とのコミュニケーションは成り立つか、という問いへの答えである。
三体では、異星人の生態が、必ずしも人間と近いものではない、ということに基づいている。なんらかの音声を発生しているのならまだやりようがあるだろう。しかし人間が感知できない器官を使用していたら?
そもそも、下手したら、生物学上の「界」(生物のジャンル分けで一番大きい括り、動物と植物に別れている)すら違う可能性がある。そんな生命体と、果たして本当にコミュニケーションがとれるのだろうか?という問いを「お互い」に持っているであろうということを前提にすると、コミュニケーションを取ろうとする試み自体が危険極まりないものとなる。
異星人とのコンタクトにおいて、最初の段階、つまりこちらが相手を「発見」する段階から、すでに探り合いは始まっている。こちらが観測できるということは、向こうも観測できるということに他ならない。こちらが認識した時点で、いつ、相手がこちらを認識するか分からない。認識できるとすれば、少なくとも同程度以上の文明を保持しているだろう。コミュニケーションが取れるかどうかすら分からない、自分と同じか、自分よりも進んだ文明を持つ異星人。異文化交流を試すヒマはないだろう。三体においての答えは、「やられる前にやれ」、だった。

さて、本書においてはどうだろう。こんな話をしているということは、本書においてどんなことが待ち構えているか察しがつくだろう。少なくとも本書で提示されている「答え」は根拠のない、ハートフルな理由で用意されてはいない。
問い:コミュニケーションはとれるのか?
答え:とれる。
理由は是非読んでいただきたい。

おわりに

プロジェクト・ヘイル・メアリーは、MGM配給、ライアン・ゴズリンク主演で映画化が決まっているそうだ。オデッセイは映画単品で見ても端折っている感じもなく、綺麗に収まっているように思えたが、果たして本作はどうなるだろうか。
ちなみにヘイル・メアリーとはアヴェ・マリアの英語読みで、アメフトの試合においてタイムアップの際、一か八かで放つロングパスのことを言うらしい。
本書の背骨となるペドロヴァ問題は、地球上でおさまるような問題ではなく、人類が取れる手段も、まさに一か八かの賭けでしかない。やぶれかぶれのロングスローとして放たれた主人公は、地球から遠く離れた宇宙空間で死ぬ運命にあろうとも、目の前の課題にひたすら取り組む。その様に悲壮感はなく、本人の陽気さと、科学者であるがゆえの好奇心に満ちている。そのトライアンドエラーを楽しむのが本書のメインの一つだ。
アンディ・ウィアーが「火星の人」において言及していたが、彼は、作者の目的が主人公を苦しめることだとしても、根拠のないハプニングは起こさない、というポリシーを持っているそうだ。ドラマや映画などでは「苦しめるために苦しめる」ものがよくあるが、そして大抵そういう作品は理不尽さにうんざりさせられるものだが、少なくと本書において主人公が被るハプニングは、上記のトライアンドエラーという話の大きな流れに基づいているように思える。少なくとも理不尽さを感じさせるような展開とは感じなかった。

プロジェクト・ヘイル・メアリー。就寝時間前に本を閉じ、布団に入ってもドキドキが止まらず、結局遅くまで読んでしまう。寝不足の日々ではあったけれど、大層充実した日々でした。

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