なぜ心理学系の本を読まなくなったのか、心を抉って(えぐって)考えてみる。
吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。
先日は、いじめ経験を踏まえた記事を書いたけど、私のような猫を被らないと生きていけない不器用なニンゲンにとっては、この世界では、俗にいう「生きづらさ」を感じることがある。
そして、悩んだ末に、私は心理学系の本に在り付いたわけである。
心理学系の本を読むと、「運命的な本との出会い!」なんて思うこともあった。
でも、今考えてみれば、別に運命でもなんでもない。不器用なニンゲンにとっては、心理学系の本に引き込まれるのが、王道ルートだからだ。
その証拠に、売れ行きが良いのか、本屋のいちばん目立つような店頭に、心理学系の本が置かれていることが多い。
世のニンゲンたちを観察していると、強く生きている部類の人は、そもそも心理学系の本を読んでいないことが多い。
そういう強き者たちは、「自分にできないと思ったらすぐ誰かにお願いする」とか、「自分に合わない環境だと思ったら別の環境に移る」とか、自分の心の限界を感じる前に、躊躇いなく行動しているように思う。
でも、私のような不器用なニンゲンは、「頑張って自分でやらなきゃ…」とか、「自分が責任取らなきゃ…」とか、誰にも期待されていないにも関わらず、身勝手に自責して、心を疲弊させるわけである。
だけど、心理学系の本を読むと、そんな身勝手な自分を肯定してくれるわけである。そして、自分が強くなったあとのイメージも提示してくれるわけである。
そんなこんなで、現実世界ではうまくいっていないにも関わらず、空想の自分はどんどん強くなっていき、幽体離脱のごとく、自分の実体と精神が乖離していくわけである。
ただ、心理学系の本を読んでいると気づくわけである。
「あれ、同じことをいろんな人が言葉を変えて言ってるだけじゃない?」って。
初めて心理学系の本を読んだときには、新しいものに触れた感動があるのだけど、どんどんその刺激が、失われていくことに気づくわけである。
そして、ライトな心理学系の本を捨て、ガチの心理学系の学術書を読み出すわけである。
このルートに入ってしまうと、本の内容は難しいのにも関わらず、自分の悩みを解決する直結な手段は見つからず、コスパの悪さに挫折してしまうニンゲンたちが大半なのである。
さて、私はこうした過程の中で、産業カウンセラーという民間資格を取得した。
この資格には、数ヶ月にわたる実践のスクーリングと筆記試験がある。
資格の取得の過程で、労務系の知識やカウンセリングの技能など、色んなことを学ぶことができた。でも、一番自分にとって影響を与えたのは、「知識」や「技能」ではなかった。
それは、カウンセリングの実践として、みんなが見ている前で、自分が相談をする側の役をやらなければいけないということだ。すなわち、自分の今抱えている弱さや悩み、トラウマなど、すべてを包み隠さず話すことが求められるわけである。
私にとって、「理想」と「現実」の天地が入れ替わるような摂動があった。
「自分がこうありたい」という理想像を作っていくことが大事だと思っていたけど、「今の自分はこうなんだ」という現実に直面することが大事なんだと。
二足歩行するニンゲンは、現実という名の地面にきちんと足をつけて、やっと前に進める。
そして、「行動して→失敗する」のループを繰り返すことで、僕たちはやっと、理想という名の大空に近づくことができる。
現実でもネットでも、行動して失敗する人を見て、嗤うニンゲンたちは多い。でも、行動して失敗しないとニンゲンは成長できないのだ。
失敗という痛みを知ることで、はじめて、心理学系の本に書いてあったことが腹落ちできる。まさに、点と線がつながる感覚だ。でも、ずっと本を読んでいるだけじゃ、点を打ち続けている作業に過ぎないのだ。
むかし、GRAVITY DAZEという重力を自由自在に操るゲームがあったけれど、いつかは地面(現実)をしっかり歩みつつ、大空(理想)を滑空したい。これが、僕たちが求める心の枷からの自由なのではなかろうか。
私は、自分の不器用さを呪っていたこともあった。多分、心の底では今も呪っている。同じことをやるにしても、楽に乗り越えてしまうニンゲンたちもいて、この世は理不尽だと思う。
でも、私にできることは、今は地面をしっかりと感じ、歩むことなんだと思う。
せっかくなので手も地面につけて四足歩行になり、また猫を被って生きていくこととする。
にゃーん。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?