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誰かを愛することがなぜ苦手なのか、心を抉って(えぐって)考えてみる。

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

前回は、婚活が疲れる理由をテーマに綴り、「愛とはなんなのだろうか?」という、浅そうな哲学的メッセージで幕を閉じた。

私は、婚活について、色んな方々とお話しし、少し違和感を感じたことがあった。

それは、婚活自体に疲れを感じず、とても楽しんでいる人が一定数いることだ。例えば、私の友人の中には、「複数の異性に対して、色んなアプローチを試せるのが楽しくて仕方ない」という人もいた。

その他にも、自分にとっては、急に他国に迷い込んだような異文化を感じることがある…具体的には、浮気や不倫の話だ。知人からは、複数人を同時に付き合っているという話を聞くこともある。

巷では、「男性は人を好きになりやすく、女性は人を徐々に好きになる」とか、「男性は恋愛を引きずりやすく、女性は次の恋愛に進みやすい」とか、根拠があるのかないのかわからないような定説を押し付けられる。

自分は、以前お付き合いしていた人と別れてから、5年が経った。不思議とこの空白の5年間は、人を愛するということはなかった。昔はもっと自然と恋愛をできていたような朧げな記憶はあるものの、今の私は、人を好きになりづらく、過去の恋愛をひきずりやすいという、定説を外れるような性質を獲得したようだ。

そんな私は、次々と人を愛せたり、同時に複数人を愛せたりする人を見ると、なんでそんな器用なことができるのかと、思う。

いや、逆に私の愛への考え方が、あまりに重すぎるのかもしれない。

ニンゲンの孤独心を癒したい欲求からすれば、誰かを愛するということは、「寝る」のと同じような生理現象なのだろう。一方で私にとって、誰かを愛するということは、「冬の寒い布団から体を起こす」ような生理現象とは反するような感覚だ。

人によっては、これを一途だと好意的に言い換えてくれることもある。しかし、私は、誰かを深く愛したことがないのかもしれない。

私はきっと、拒絶されるのが怖いのだ。誰かと深く関係性を築けば、いつか拒絶されるかもしれないという、歪んだ解釈を自分の中で抱えているのだろう。

ふと、むかし流行った恋愛シミュレーションゲームである『アマガミ』を思い出した。

『アマガミ』の各ヒロインとの関係画面

『アマガミ』では、それまでのヒロインたちとの関わり合いによって、最終的な関係性が、「スキ」「ナカヨシ」「ソエン」「テキタイ」に分かれるようになっている。

深く人と関わるということは、「スキ」になることもあれば、「テキタイ」になることもある。それが怖くて、私は、それ以前の関係で留めてしまうのかもしれない。

それでも、私はなぜ、未練がましく婚活で愛を探そうとしているのだろうか?

興味本位で読んでいた『現代思想』に、自分の中でしっくりきた表現があった。

バブル期の「遊び」としての恋愛においては、結婚やセックスといったゴールが達成された時点でゲームは終わりとする見方が強かったと思うのですが、今はセックスをしたからといって恋愛感情が消えるという感覚はおそらくない。いわば持続的幸福感ならぬ“持続的恋愛感情”のようなものが想定されていて、それをなんとか維持しようという努力を今の若いカップルや夫婦はしているのではないか。制度的保証よりも、お互いに裏切らないという信頼感が持て、それによって自尊感情を安定させられるような“ずっと一緒にいられる相手”との関係性を「理想」として保持しており、それを達成しようと欲しているように見えます。

高橋幸、永田夏来(2021)「これからの恋愛の社会学のために」『現代思想2021年9月号』青土社

-お互い裏切らないという信頼感-

私は、愛というものに、永続的な信頼感という淡い幻想を抱いているのだろう。

Twitterで「遂に離婚できました!」という投稿がよくバズっていて、そんな投稿を見ると、私にはあまりに刺激が強すぎるようで、絶望の向こう側に行ってしまうような感覚になる。

3組に1組が離婚するといわれるこの世の中。きっと最初から失敗すると思って、結婚する人はほとんどいないだろうから、愛に幻想を抱いている人は私だけではないのだろうと、思うことにしたい。

吾輩は、まだまだ猫を被って、真実の愛を探すこととする。

ところで、私が深く他人と関われる人が少ない理由、すなわち他者からの拒絶を深層心理から恐れている理由は、なんなのだろうか。

きっと、私自身が過去に経験した、いじめの話を避けては通れないだろう。

次回は、いじめについて、自分の心を抉りながら、考えてみることにする。


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